大谷吉継の首級はどこに?湯浅五助との約束を果たした戦国武将・藤堂仁右衛門:2ページ目
刑部の首級はどこに?
「仁右衛門よ、でかした!」
豪傑と名高い湯浅五助の首級を奪ったとあって、主君の藤堂高虎(とうどう たかとら)そしてその盟主たる徳川家康(とくがわ いえやす)は大喜びです。
「……して、大谷刑部の首級はいかがした?」
病み衰えて目も見えず、歩くこともできないため輿に担がれながら指揮をとっていた吉継が、一人で逃げ延びることは不可能です。
もちろん他の家臣たちが介助すれば逃げられないこともないでしょうが、大敗を喫した吉継が、命を惜しんで生き恥を晒すとも思えません。
となれば、切腹してそれを介錯した五助が、首級をどこかに隠したと考えるのが妥当です。
「左様。仁右衛門よ、何か知っておるのではないか?」
家康のご機嫌を損ねぬよう、高虎も答えを促します。あり得ないこととは思いながら、万に一つ仁右衛門が利敵行為などしていれば、どんなお咎めを受けるか分かりません。
しかし仁右衛門は、事の次第を正直に答えます。
「いかにも刑部の首級について、その在処は知っております。しかし五助と交わした約束ゆえ、何人たりとも明かせませぬ」
「何だと!」
「たとえ敵といえども、信義に悖る振る舞いは武士として末代の恥。罰するならばいかようにもなされませ」
どれほど説得しても頑として譲らない仁右衛門の心意気に、呆れるやら感心するやら……とうとう家康は吉継の首級を諦め、仁右衛門に褒美として槍と佩刀を与えたということです。
終わりに
こうして大谷吉継の首級は見つからずじまいとなりましたが、五助との約束を守り通した仁右衛門はもちろん、その強情を許してやった家康の度量も相当のものでした。
自分の命と引き換えに主君の名誉を守る者、その想いを汲んで命がけで約束を守る者、それらの心意気を受け入れる者……かつてこういう日本人がいたことを、次世代に伝えていきたいものです。
※参考文献:
- 参謀本部『日本戦史 關原役補傳』元真社、1893年6月
- 大日本人名辞書刊行会 編『新版 大日本人名辞書 下巻』大日本人名辞書刊行、1926年6月