名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【後編】
名門貴族・近衛家出身でありながら、戦国武将となった斎藤大納言正義。美濃統一を目指す斎藤道三の後援を経て、武将としての頭角を現していきます。
後編では、そんな斎藤大納言正義の活躍と悲劇的な最期を紹介しましょう。
前編の記事はこちら
名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【前編】
貴族・公家と戦国武将って、結びつきませんよね。でも、美濃国に、名門貴族である近衛家出身の戦国武将がいたのです。その名も、斎藤正義(さいとうまさよし)。元貴族らしく大納言の官位を得て、斎藤大納言…
16歳で初陣を飾り、要の城の城将に
斎藤正義は、16歳で元服するとすぐに初陣を飾りました。斎藤道三に仕えていた日根野弘就(ひねのひろなり)の軍勢に従い、大桑城に拠って道三とその主である土岐頼芸(ときよりあき)に敵対していた土岐頼純との合戦にのぞんだのです。
この時、正義は300人の手勢を率いていたといわれます。300人の兵を動員するためには1万石近い所領がないとできません。この時点で、正義がそれほどの所領を持っていたとは考えづらく、おそらくは道三が正義の初陣のために兵を与えたのではないでしょうか。
その後、道三が東濃(美濃東部)への橋頭保として高山(古城山)山頂に「掻き上げの城」を築くと、2000人の兵を率いる城将として城の守備を任されたとされます。この城が、後に正義が城主となる鳥峰城(兼山城・金山城)の原型かどうかは定かではありませんが、初陣の後に、7倍以上の兵を与えられたわけです。
このことから、道三が、単に血筋だけでなく、正義の武将として器量を認めていたと考えて差し支えないと思われます。
ただ、【前編】で述べた通り、美濃統一に野心を燃やす道三としては、正義に流れる名門貴族の血は、曲者揃いの美濃国人衆を服従させるためには、絶対に手放せないものであったのでしょう。その後の大納言正義の活躍の背景には、絶えず道三がつきまとうのです。