坂本龍馬は私が育てた!龍馬の姉・坂本乙女の女傑ぶりと弟への愛情エピソード:2ページ目
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この年、龍馬が暗殺されてその妻であるお龍(りょう)が身を寄せて来たため、これを親身に迎えたと言いますが、程なくして去ったため、実は仲が悪かったのでは?など諸説あるようです。
龍馬の生前は最大の理解者として何かと相談に乗ったり、一方で他愛ないコミュニケーション(手紙のやりとり)を楽しんだりなど、終生仲良しだったようで、その事が「弟を奪った憎い女」=「お龍との不仲説」を生んだのかも知れません。
晩年は独(どく)と改名して甥の坂本直寛(なおひろ。後に自由民権家、高知県会議員)と同居。
これまでの女傑ぶりであれば、ここで甥と共に自由民権運動に参加していそうな気もしますが、そのような記録は見受けられないため、大人しくしていたのでしょう。
そして明治12年(1879年)に壊血病(極度のビタミンC欠乏症)で病死。どうやら当時は死の病だったコレラが野菜から感染すると聞いて、いっさい食べなかったことが原因と考えられています。享年48歳でした。
終わりに・自分らしく生きること
よく時代劇などで「私が男に生まれていれば(活躍できたはずなのに)……!」と嘆く女性が登場します。
しかし、男性に生まれても特段の活躍もできない者が少なからぬ一方で、女性に生まれても活躍している者もこれまた少なくありません。
女性に生まれようが男性に生まれようが、我らが乙女姉さんはそんなものどこ吹く風。
「立て、それでも男か!」
豪快に笑い飛ばして龍馬を英雄に育て上げた乙女の生涯は、何に生まれるか、よりもどう生きて何になるか、そして自分らしく生きることの価値を教えてくれるようです。
※参考文献:
- 阿井景子『龍馬と八人の女性』戎光祥出版、2005年4月
- 鈴木かほる『史料が語る 坂本龍馬の妻お龍』新人物往来社、2007年11月
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