秀吉を挑発し激怒させた逸話も!徳川四天王の一人、戦国武将・榊原康政の生涯と人柄に迫る
みなさんは、榊原康政(さかきばら やすまさ)という人物を知っていますか?日本史に詳しい人でなければあまりなじみがないかもしれませんが、実は知勇にも武勇にも非常に優れた才能を持つ人でした。
そこで今回の記事では、そんな榊原康政について、彼の人生や人柄について詳しくご紹介したいと思います。
榊原康政の生涯~家康に大抜擢~
榊原康政(さかきばら やすまさ)は、天文17年(1548年)に、三河国上野郷(現・愛知県豊田市上郷町)にて榊原長政の次男として生まれました。
彼が13歳のころに松平元康(後の徳川家康)に見込まれ小姓となりました。榊原康政の初陣は三河一向一揆でした。
彼がどのような動きを見せたのかは記録に残っていませんが、彼の活躍ぶりは、その際に家康から名前の一字である「康」を授けられたと言われていることからも想像できます。
19歳のときには、本多忠勝と共に、旗本先手役(家康の護衛をしたり、戦場に出向いたりする役目)に任命されます。
榊原康政の生涯~豊臣秀吉を激怒させる~
本能寺の変のあと、1584年(天正12年)に起きた小牧・長久手の戦いで、榊原康政は秀吉を激怒させてしまいます。
というのも、榊原康政が秀吉を挑発するために出した檄文(げきぶん)。のちに、秀吉に呼び出された榊原康政ですが、殺されることなく和解を果たしています。
また、関ヶ原の戦いについては、当時、徳川秀忠についていた榊原康政はまさかの大遅刻。これは真田昌幸との想定外の戦いなどの理由がありますが、家康は怒ってしまいました。
その後老中となりましたが、1606年(慶長11年)に亡くなってしまいました。
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