不平士族の暴走、そして「日本史上最後の内乱」
日本の近代史で重要な節目とされている西南戦争(せいなんせんそう)。
西郷隆盛が率いる鹿児島県の士族と、西郷とは同郷である大久保利通をトップとした新政府軍。この両者が刃を交えることになった、悲劇的な戦争でもあります。
西南戦争は、事実上「日本史上最後の」内戦です。
この戦いはなぜ起きたのでしょうか。この記事ではその経緯をたどっていこうと思います。
当時の日本には、明治新政府に不満を持つ「不平士族」が大勢いました。
不平を抱くのももっともで、彼らは明治9年から俸禄の支払いが停止されることになっていました。また徴兵令によって武士の存在価値も失われつつありました。
一方、明治政府にとっても、士族の生活を再建するための「士族授産」は重要課題のひとつでした。
征韓論争で敗れて野に下った西郷隆盛は、薩摩出身の陸軍将校たちと鹿児島に私学校を設立しました。それは私設の士官学校というべきものでした。
西郷のこうした動きには、薩摩出身の不平士族を鹿児島へ移動させる意味がありました。おそらく暗黙のうちに大久保もそのことは分かっていたのでしょう。彼も学校の設立に出資しています。
さて明治9年、俸禄を失う士族たちは、怒りのはけ口を求めて反乱事件を起こします。有名な熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱は10月に連続して起きました。
これが私学校の士族たちを刺激します。
当時、学校の実権は桐野利秋が握っていました。設立者の西郷は湯治に行って学校を空けることが多かったのです(もともと西郷は幕末の頃から心身の不調に苦しんでいたとされています)。
桐野利秋といえば「人斬り半次郎」の異名を持つ男。禁門の変や鳥羽・伏見の戦いで奮闘して後は陸軍少将に任じられ、熊本鎮台司令長官、陸軍裁判所長を歴任しました。
当時、その彼は極端な反政府思想を持っており、私学校の生徒たちを率いて暴走していくことになります。