もうカタギに戻れない…殺人を犯した明治時代の美人芸妓・花井お梅の末路【下編】
前回のあらすじ
前回の記事 もうカタギに戻れない…殺人を犯した明治時代の美人芸妓・花井お梅の末路【上編】
時は明治初期、貧乏侍の娘・ムメ(花井お梅)は幼くして養女に売られ、15歳で芸妓デビュー、小秀(こひで)と名乗ります。
後に18歳で「花柳界で成り上がってやる!」という心意気を宣言するべく秀吉(ひでよし)と改名。
持ち前の美貌と姐御肌でガンガン売り出しますが、酒癖の悪さとヒステリックな性格で周囲から敬遠されてしまいます。
そんな彼女が恋したのは歌舞伎役者の四代目 澤村源之助(さわむら げんのすけ)。パパ活(※)で荒稼ぎしたおカネをこれでもかと貢いだものの、あっさりフラれてしまいました。
(※)第百三十三国立銀行(現地:滋賀銀行)のとある頭取に囲われていたそうです。
少しでも当てつけになればと源之助の付き人だった八杉峰三郎(やすぎ みねさぶろう)を下男に雇ったものの、源之助は見向きもしません。
「チッ、当てが外れたね……!」
ともあれ25歳になった明治20年(1887年)5月、日本橋浜町(現:東京都中央区)に待合茶屋「酔月楼(すいげつろう。水月とも)」を開店(※これもパパ活の成果)。
「よく頑張ったなお梅。これでお前も独り立ちだ!」
そうなると鬱陶しいのが、雇われているだけのくせに、隣で旦那ヅラをしている峰三郎の存在でした……。
峰三郎を刺殺、騒ぎ立てるマスコミ
「あぁ……やっちまった……」
明治20年(1887)6月9日、ムメは峰三郎を刺し殺してしまいました(厳密には、逃亡後に出血多量で死亡)。
その動機は史料によって様々であり、いつも?の口喧嘩がエスカレートした結果とか、好きでもない峰三郎のストーカー行為が鬱陶しかったとか、峰三郎に店を乗っ取られそうになったなど諸説あります。
「美しすぎる芸妓、恋人を刺殺!」「権利争いか、痴情のもつれか」……などなど。
美人芸妓の殺人事件とあってマスコミは喜んで飛びつき、あることないこと書き立てられた挙句、ムメは「毒婦」の濡れ衣を着せられてしまいますが、当のムメは計画的犯行どころか動転して歩けず、父親に介助されながら自首するほどでした。
裁判の結果、無期徒刑(無期懲役)の判決が下され、服役中もマスコミによってその動静が騒ぎ立てられ、けっきょく明治36年(1903年)4月に釈放。ムメは41歳になっていました。
事件から十数年が経ってもまだ野次馬が群がってくるのを避けるため、定刻より早めに刑務所の裏口から出て行ったそうです。
2ページ目 カタギに戻れず、自分の殺人経験を切り売りした晩年