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討幕への口火に!黒幕・西郷隆盛が仕組んだ薩摩屋敷焼打ち事件とは【薩摩藩邸焼打ち事件の真相編】

討幕への口火に!黒幕・西郷隆盛が仕組んだ薩摩屋敷焼打ち事件とは【薩摩藩邸焼打ち事件の真相編】

鳥羽伏見の戦いを誘発したとされる薩摩藩邸焼打ち事件。

【第2回】では、大王政復古の大号令後の維新政府、復権を画策する徳川慶喜の動向について。そして、追い詰められた維新政府倒幕派を救ったのが薩摩藩邸焼打ち事件であることを紹介した。

【第3回】は、薩摩藩邸焼打ち事件と西郷隆盛の人物像についてお話ししよう。

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討幕への口火に!黒幕・西郷隆盛が仕組んだ薩摩屋敷焼打ち事件とは【維新政府、徳川慶喜の動向編】

旧幕府側の暴発を誘い、鳥羽伏見の戦いの口火となったといわれる薩摩藩邸焼打ち事件。【第1回】では、薩摩藩邸焼討ち事件の経緯として、大政奉還から王政復古のクーデターを経て、維新政府が発足したことを…

薩摩藩邸焼打ち事件とは

 

工作の成功にほくそ笑む西郷

1867(慶應3)年の師走は、西郷隆盛、大久保利通などの薩摩藩討幕派にとって、心を休める時が全くなかったのではないだろうか。

王政復古の大号令をもって、維新政府が立ち上がり、自らが思い描く政治体制を築けたはずであった。しかし、実態は全く違っていた。あろうことか、徳川慶喜が復権を遂げようとしているのだ。

このままでは、政治首班を慶喜に奪われる。だが、じりじりと追い詰められていく中で、旧幕府が暴発してくれたのである。そして、そのきっかけとなったのが、西郷が用意周到に準備した工作により起きた「薩摩藩邸焼打ち事件」であったとは……。西郷にとってはまさに「してやったり」とほくそ笑む思いであったろう。

薩摩藩邸焼打ち事件の真相

では、「薩摩藩邸焼打ち事件」とはどのようなものであったのか。その目的は、旧幕府の本拠・江戸で騒乱を起こし、それがやがて戦争に発展するように画策した工作であった。

すなわち、将軍のおひざ元である江戸をかき回すことにより、江戸城にいる主戦派を刺激し、無理やりに内戦状態に持ち込もうとしたのだ。

ただ、武士らしく真っ向から旧幕府と対峙するのではない。その真相は、罪のない町民まで巻き込んだ無差別テロを繰り返す攪乱行為だった。

西郷の意を受けた薩摩藩士益満休之助と薩摩陪臣伊牟田尚平が、江戸に潜入したのは、1867(慶應3)年の10月頃であった。

薩摩藩出身の第13代将軍家定正室の「天璋院様御守護」という名目で、諸国の浪人500人を集め浪士隊を組織したのである。その中には、後に赤報隊を率いることになる相楽総三も幹部として加わっていた。

ただ、天璋院篤子の守護など、ただの名目であったことは、その後の浪士隊の行動で判明する。以下に、薩摩浪士隊の起こした主な事件を挙げてみよう。

➀方々の豪商・商家への押し込み、勤皇活動費と称して大金を強奪
②野州出流山(栃木市)での武装蜂起
➂甲府城攻略を目指し、八王子で交戦
➃荻野山中藩(相模国)の陣屋を襲い、放火
⑤江戸市中警護の庄内藩屯所(芝赤羽橋)を銃撃
➅庄内藩屯所(三田同胞町)を銃撃、居合わせた町民2名を殺害
➆天璋院付の女中の手引きにより、江戸城二ノ丸に放火
➇江戸市中で、見境なく放火・略奪・暴行を行う

そして、このようなテロ行為を実行すると、これ見よがしに薩摩藩邸に逃げ込むのである。

こうした露骨な挑発行為に、静観していた幕府中枢がついに動いた。薩摩藩邸に犯人引き渡しを迫ったものの拒絶されると、12月25日、幕命で薩摩藩邸の焼き討ち命令が出されたのである。

幕府軍は、庄内藩兵を主力とし、出羽上山藩、越前鯖江藩、武州岩槻藩、さらには幕府歩兵の伝習隊が加わり、2000余人の兵で薩摩藩邸を包囲した。

幕府軍は、薩摩藩邸を銃砲で攻撃、周囲では熾烈な市街戦が繰り広げられ、浪士隊は50名近い戦死者を出し壊滅した。

益満休之助は捕えられ、伊牟田尚平、相楽総三は、生き残った浪士隊と江戸湾の薩摩軍艦に収容され、大坂に向け脱出したのである。

2ページ目 事件から伺える西郷隆盛の人物像

 

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