娘よりも母親(私)がいいの?平城天皇を惑わせ謀叛を共謀した平安時代の悪女・藤原薬子:3ページ目
準備に1年、3日で鎮圧
「平安京を廃し、平城京に都を戻す!(要約)」
平城上皇の発せられた詔勅に、嵯峨天皇ら平安京のメンバーは驚きます。
「バカな!父帝(桓武天皇)が『平安京から都を移すな』と遺言されたのをお忘れか!」
そもそも、現職の天皇陛下を差しおいて遷都のように重大な詔勅を発するなど、同じ皇族と言えども謀叛とほとんど変わりありません。
「畏れながら、上皇陛下はあの女狐にたぶらかされておいでですな……」
今すぐにも止めさせたいところでしたが、平城京には勢力を蓄えた仲成の軍勢が控えており、真正面から力押しすれば、こちらも被害は甚大でしょう。
「そこで、ここはとりあえず詔勅に従ったフリをして布石を打ち、機を見て一気に鎮圧するのがよろしいでしょう」
という訳で、嵯峨天皇は平城京の造営使(都市整備の担当官)として坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)らを派遣。その一方で、平城京からは仲成を招待してねんごろにもてなします。
(フフフ、我らに恐れをなしておるな……)
妹・薬子が上皇陛下の寵愛を受けている限り、平安京の連中も我らには手を出せまい……古来「憎まれっ子世に憚る」とはよく言ったもので、仲成の得意顔が目に浮かぶようです。
かくして平安京の嵯峨天皇、平城京の平城上皇という二重権力が睨み合い、もしかしたら平城上皇の復帰もあるのか、どちらに従ったものか人々は混乱しながら、明けて大同5年(810年)9月10日。
「上皇陛下を惑わす奸臣どもを誅(ちゅう。処罰)する!」
丸1年をかけて周到に準備していた嵯峨天皇は、手始めとして平安京に滞在していた仲成を捕らえ、薬子の罪を糾弾し、その官位を剥奪する詔勅を発しました。
「……平安京の連中め、ついに正体を現したか!者ども、かかれ!」
兄の逮捕を知った薬子は平城上皇と共に挙兵したものの、忠実な部下だと思っていた坂上田村麻呂らが一斉に寝返り、たちまち孤立無援となってしまいます。
「……最早これまで。朕は出家して弟に詫び、そなたの助命嘆願をいたそう」
平城上皇はただちに出家・剃髪して平安京へと出頭。それを見送ったのか否か、薬子は9月12日に服毒自殺。仲成も処刑されて「薬子の変」はあっけなく終焉を迎えたのでした。
エピローグ
薬子の変に連座して息子たちもそれぞれ処罰を受けましたが、後に復帰。そもそも大宰府に遠ざけられていた夫の縄主は無罪とされます。
また、出家した平城上皇もその地位を保たれ、嵯峨天皇の朝覲行幸(ちょうきんぎょうこう。目上の皇族に対する拝礼)を受けていることから、あくまで薬子と仲成にたぶらかされただけの被害者として赦されたようです。
時に、誰が呼んだか日本三大悪女というものがあるそうで、時代順に北条政子(ほうじょう まさこ。鎌倉時代)・日野富子(ひの とみこ。室町時代)・淀君(よどぎみ。戦国時代)と言うそうですが、彼女たちよりも薬子の方がよほど悪質だったのではないでしょうか。
※豊臣家を滅ぼした淀君はともかく、鎌倉幕府の危難を救った北条政子のどこが悪女で、日野富子も悪評こそあれ言い分はあります。
為政者が私情に走り、色恋に迷えば国を誤る……今回紹介した「薬子の変」は、日本史上に大きな教訓を残してくれたようです。
※参考文献:
円地文子 監修『人物日本の女性史5 政権を動かした女たち』集英社、1977年7月
高橋崇『人物叢書 坂上田村麻呂 新装版』吉川弘文館、1986年7月