戦国きっての勇将・島左近の墓が京都西陣にあった!旅で見つけた隠れ歴史スポット【前編】:2ページ目
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関ケ原で勇戦するも消息不明に
1600(慶長5)年、天下分け目の戦いと称される関ケ原の合戦が起こりました。島左近の主・石田三成は、実質上の西軍総大将として、東軍を率い天下取りを狙う徳川家康と戦ったのです。
左近は、この戦いで武将としての力量を遺憾なく発揮します。関ケ原の戦いの前哨戦である杭瀬川の戦いでは、わずか500の兵で、東軍の中村軍・有馬軍を相手に見事勝利をあげました。
本戦においても、石田三成隊の先手大将として、攻め寄せる東軍諸隊を向こうに回して勇戦します。味方が危ういと感じた東軍の黒田長政は、先頭に立ち指揮を執る左近を狙い、側面からの射撃を命じました。
黒田隊の猛烈な射撃を浴びた左近は重傷を負い、緒戦の内に石田隊陣内へ運び込まれました。
左近が負傷したことで、勢いづいた東軍は、三成の本陣に押し寄せます。それを察した左近は、傷の手当てもそこそこに、血槍を振り回し、再度最前線へ突入。怒涛の勢いで迫りくる東軍の大軍の中に、飲み込まれてしまったのです。
それから先、左近の姿は戦場から忽然と消えてしまいました。乱戦の中、銃弾に斃れたとも、西国に落ちていったとも、様々な推測が流れましたが、その後、誰もその姿を見た者はいなかったのです。
ただ、左近の戦いぶりを見た東軍の将士達は、夢の中に現れ「かかれ!」と戦場を震わすほどの大音声で叫ぶ左近の幻に悩まされたといいます。
左近の戦いぶりは「鬼神も欺く」と称されたほど恐ろしいもので、その姿にうなされる者が続出したということでした。
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