戦国大名もブランド重視?徳川家康と島津義久の家柄争いエピソード:3ページ目
どっちもどっちの家柄争い
島津氏はその祖先である惟宗忠久(これむねの ただひさ)が頼朝公の庶子であるという言い伝えを元に、源氏の末裔を自称していましたが、その根拠は極めてあいまいなものでした。
「いやぁ、さすがは『頼朝公のご子孫』ですねえ」
家康の言葉は、そんな島津氏に対する皮肉に外なりませんが、じゃあそんな徳川氏はどうかと言えば、これまた源氏の名門である新田(にった)氏の末裔……を自称していたものの、これまた根拠に乏しいものでした。
「うるさい、そなたらとて自称のくせにっ!」
同じ源氏を自称する者同士、もしかしたら「どっちがより嫡流に近い=格上か」なんて家柄争いをしていたのかも知れませんね。
この場合だと、新田氏よりも「源氏の嫡流(※まぁ、これさえも自称なのですが)たる頼朝公」により近い島津の勝ちと言ったところでしょうが、結局は天下が徳川の手に帰したことを思えば、家柄よりも中身の方がより大事なのだと実感できます。
※参考文献:
岡谷繁実『名将言行録 現代語訳』講談社学術文庫、2013年6月
野村武士『島津忠久と鎌倉幕府』南方新社、2016年11月
平野明夫『三河 松平一族 徳川将軍家のルーツ』洋泉社、2010年5月