女湯に入る特権つき?江戸時代のモテ職業ベスト3「江戸の三男(さんおとこ)」の一つ・与力とは?:2ページ目
力を与え、与(くみ)する「寄騎」に由来
与力と言うと、お江戸が舞台の時代劇によく似合うイメージですが、役職としてはともかく、与力の存在自体は中世(平安時代~戦国時代)からありました。
元々はただ「戦さなどに加勢する者」つまり「力を与え、与(くみ)する者」という意味で、「寄騎」とも書かれたように、颯爽と助太刀に駆けつける騎馬武者の頼もしい姿が想起されたことでしょう。
戦国時代になると在地の土豪を指すことが多くなり、大名たちは彼らを直接雇い入れて有力な家臣に派遣して寄親(よりおや)・寄子(よりこ)関係を結ばせ、軍事力を有効に活用しつつ、謀叛を起こさせぬよう監視させる役割もあったようです。
やがて戦乱の世も遠く過ぎ去り、天下泰平となった江戸時代においても与力≒騎兵扱いという感覚は残り、馬に乗ることを前提として袴を着用し、歩兵扱いの同心(どうしん)よりも上位として、共に奉行など上官の補佐に当たりました。
具体的には同心たちを指揮・監督して奉行所一帯の治安を維持し、また奉行に上げるまでもない些細なもめごと(民事・刑事)を取りさばくこともあり、現代で言うなら警察官と裁判官を合わせたような役職です。
そういう事情から、いざもめごとに際して何かと便宜を図ってもらえるよう、武家や商家など多くの人々から付け届け(役得?)を貰えることが多く、元から俸給も悪くない(※)ため、裕福な者が多かったと言います。また、役宅(官舎)として八丁堀(現:東京都中央区)に300坪ほどもある広い屋敷を与えられました。
(※)中には200石以上の俸禄を持つ者もおり、下手な旗本よりも羽振りがよかったと言います。ただし、罪人を取り扱う不浄の役職として将軍への謁見はもとより江戸城へ登ることは許されませんでした。
広大なお屋敷に住むお金持ち……これだけでもモテそうですが、与力はその役職を示す独自の髷を結っており、またそれに似合う粋な身なりを揃えるお金があったことも、人気の理由だったそうです。