英雄も命が惜しい?天下無双の戦国武将・本多忠勝が三度も「死にたくない」と言った本意:2ページ目
家康に 過ぎたるものが 二つあり…数々の武功を立てる
以降、生涯57回にわたって出陣、姉川の合戦(元亀元・1570年)では朝倉義景(あさくら よしかげ)率いる1万の軍勢に単騎で突撃を敢行、敵の豪傑・真柄十郎左衛門(まがら じゅうろうざゑもん。直隆)を討ち取って武名を馳せます。
また元亀3年(1572年)には一言坂で武田信玄(たけだ しんげん)の軍勢と戦い、圧倒的不利な状況下で敵中突破に成功。その武勇を称えた人々は、こんな狂歌を詠んだそうです。
「家康に 過ぎたるものが 二つあり
唐の頭に 本多平八」
唐の頭(とうのかしら)とは中国大陸から輸入したヤクの毛をあしらった兜で、舶来品とあって当然高級品。本多平八(平八郎=忠勝)は、それにも並ぶ貴重な(家康にはもったいない)存在であると謳われたのでした。
さらに武田討伐でも数々の戦闘に武功を立て、人々は「蜻蛉(とんぼ)が出ると蜘蛛(くも)の子散らす」「手に蜻蛉 頭に角の すさまじき 鬼か人か しかとわからぬ」などはやし立てたと言います。
蜻蛉とは、忠勝の得物である名槍「蜻蛉切(とんぼきり)」。以前、この槍を立てておいたところ、その先端にとまった蜻蛉が鋭さのあまり自分の体重(0.何グラム?)で切れてしまったという逸品です。
頭には鹿の角(※)を生やした兜(鹿角脇立兜)をかぶった凄まじい姿で、鬼神か人間か、確かなことは(確と≒鹿と)わからない……という意味になります。
(※)ちなみにこの鹿の角は本物ではなく、和紙の重ね貼りで造形した上から黒漆を塗り固めたものだそうです。
他にも黒糸縅胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)や自分の屠った敵を弔うために肩に大きな数珠をかけた姿で知られ、その姿を見た者たちは、さぞや震え上がったことでしょう。
その後も武勲を重ねた忠勝は、羽柴秀吉(はしば ひでよし)と対立した小牧・長久手の合戦(天正12・1584年)において500の軍勢で秀吉の大軍を足止めし、その武勇に惚れ込んだ秀吉をして「忠勝は絶対に殺すな(生け捕って家臣にしたい)」と言わしめます。
天下分け目の関ヶ原合戦(慶長5・1600年)でも90の首級を挙げたと言いますが、この時すでに53歳。当時としてはかなりの高齢者ながらなお矍鑠(かくしゃく)として、平素から鍛錬を欠かさなかった賜物でしょう。
さて、そんな忠勝も戦乱の世が次第に収まりつつある中、武力一辺倒の者たちは次第に居場所すなわち奉公の機会を失っていきます。
「……まぁ、平和なのはよいことじゃが……」
やり切れぬ思いを抱えながら、慶長15年(1610年)10月18日、忠勝は63歳の生涯に幕を閉じたのでした。