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イケメンは罪深し…徳川吉宗も起用したイケメン大名・鳥居忠意の女性関係におけるトホホな話

イケメンは罪深し…徳川吉宗も起用したイケメン大名・鳥居忠意の女性関係におけるトホホな話

江戸時代にはイケメン過ぎたことが原因で、女運に恵まれなかった人物がいました。

その人物は鳥居忠意(とりい-ただおき)で、下野壬生藩の3代目藩主を務めつつ、老中にもなったやり手のエリート大名でした。

今回は忠意がどのような人物で、かつ女性たちとのエピソードをご紹介したいと思います。

イケメンが功を奏し、出世街道を歩む

忠意は享保2年(1717)、下野壬生藩主・鳥居忠瞭の長男として生まれます。

さらに類まれなる美貌の人物でしたので、「日本一の美男なることよく人の知るところなり」と評価されていました。

その美貌は時の将軍・徳川吉宗の知るところとなり、忠意は吉宗の代わりとして日光東照宮などへ参拝しました。まさに忠意は名代大名として徳川家斉の時までこの役を務めます。

また、この役目で寺社との繋がりを持ったことから35歳には寺社奉行となり、着実に出世していき仕舞いには老中となりました。

絵に書いたようなエリート街道を進んだ忠意でしたが、正室との出会いから女性に悩まされることになります。

恋焦がれた正室が起こした悲劇

忠意の正室は亀井氏の娘で、忠意のことを非常に好いていました。

そのため、参勤交代で忠意が壬生藩に帰国となった時、制度によって江戸にいなければならない娘は大泣きしまいました。

それでも忠意は壬生藩に帰りますが、娘は恋しい忠意のことが待ちきれず半狂乱状態になってしまいます。そして、食べ物もろくに食べなくなり、衰弱死してしまいました。

これには忠意もショックを受け、「絶対に正室は持たない」と誓います。

しかし正室とは子をもうけなかったので、子孫を残すために側室の応募は行いました。

すると、多くの女性が忠意の側室になりたいがために応募してきました。

2ページ目 側室同士で忠意の取り合いに

 

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