”盛る”という言葉の語源は?「山盛り」ご飯にみる日本人の食への想い:3ページ目
ご飯を「高く盛る」「山盛りにする」理由
それにしても、なぜ日本人はこれほどまでにご飯を「高盛り」あるいは「山盛り」にして食べてきたのでしょうか?
先ほど述べたように、食べ物を「盛る」行為は、豊穣な自然の恵みのパワーや、神様へのお供えに匹敵する神聖さを「盛る」ことでもありました。
これを、さらに「高く」「山のように」盛るのですから、昔の人がそこにどんな気持ちを込めていたのか、なんとなく想像がつきますね。
そういえば、昔の日本人にとっては「山」も神聖な存在でした。祭りなどで神霊を招くための設置物を「作り山」と呼んでいましたし、今でも祭礼での出し物を「山車(だし)」と書きます。ご飯を「山盛りにする」ことは、こうした神聖なイメージと無関係ではなかったはずです。
さらに付け加えると、「盛る」と同じような言葉に、ご飯を「よそう」というのがありますね。これの語源は「ご飯をよそおう」で、漢字で書くと「装う」「粧う」となります。
このような語源をたどっていくと、昔の人にとってご飯を器に入れることは、高~く積み上げて、美しく装って、そこに神様のパワーを込めることと繋がっていたと思われます。
もちろん、現実としては、ご飯は空腹を満たして疲労を回復させるためのものです。
ただ、昔の日本人にとって、体力の衰えや病気などは、魂の衰え、生気の衰えでもありました。そうしたものを回復させ、生命力を取り戻すために、大晦日や節分などに宗教的儀式を行っていたことは前にも書いたことがあります。
大晦日・お正月・節分・お盆をつらぬく日本文化の「根っこ」とは?【前編】
ですので、高盛り・山盛りにした食事には、衰退した生命力を取り戻す神聖な力がある――というイメージを、昔の日本人は抱いていたのでしょう。
食べ物から神聖な力を得るという考え方は、昔は珍しいものではありませんでした。例えばお正月の鏡餅は「鏡開き」をして食べますが、もともとは、そこに宿った神聖な力を食べることで、神様のパワーを分けてもらうという意味がありました。
あながち迷信でもない?食べ物の聖なる力
こうして考えていくと、「盛る」という言葉には、現代に生きる私たちが想像するよりもずっと神聖なニュアンスが含まれていたことが分かります。
若者言葉と思われている「写真を盛る」「話を盛る」などの言い方も、実は古来の日本人の心性をしっかり受け継いだものなのです。
もちろん、科学文明の中で生きる私たちは、「高盛りにしたご飯に聖なる力が宿っている」なんて言われても信じないでしょう。
だけど、「何かを信じて食事を採る」という構図そのものは、昔も今も変わっていないのではないかと思います。
今でも私たちは、疲労回復、健康維持、肉体改造、美容、若返りなどの効果を期待したり信じたりしながら、食材を選んでみたり健康食品やサプリメントを口にしたりします。
もちろんそれには多くの場合、科学的根拠があるのですが、効果には個人差があったり、情報の真偽が怪しげだったりすることもあるでしょう。
それでも私たちは、効くか効かないかはさておいて、そういった食べ物に期待を抱きながら摂取します。
昔の人が、目に見えない聖なるものを信じながら食事を採っていたのと、大きな違いはないのではないでしょうか?
参考資料
- 永山久夫『イラスト版たべもの日本史』(1998年・河出書房新社)
- manapedia・「万葉集『家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る』現代語訳と品詞分解・枕詞」
- 京都芸術大学「瓜生通信 梅の花びらを模ったお餅で新年を寿ぐ ―御菱葩(川端道喜)[京の和菓子探訪 #8]
- フランス国立図書館所蔵 酒飯論絵巻デジタルデータ