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秀吉だけでは天下取りはできなかった! 豊臣秀吉を支えた名補佐役・北政所ねねの手腕【後編】

秀吉だけでは天下取りはできなかった! 豊臣秀吉を支えた名補佐役・北政所ねねの手腕【後編】

自ら豊臣滅亡の危機に動くも…

1598年に秀吉が没した後、ねねは淀殿と協力して秀頼を頂点とする豊臣政権の後見にあたります。しかしその翌年、大阪城を退去し、現在の高台寺を中心とした高台院屋敷に移りました。

ねねのこの動きから、よく言われるのが淀殿の対立問題です。秀頼の母として専制を振るう淀殿と距離をおくようになり、その結果として、衰退をたどる豊臣家を見殺しにしたという説です。

しかし、これは事実とは考えられません。1600年の関ケ原の戦いでは、大津城籠城戦の講和交渉や戦後処理に関与するなど、西軍側と見られる行動をしています。

ただ、ねねのこうした動きは、徳川家康の警戒心を刺激したようです。1614年の大坂冬の陣が迫ると、ねねは大坂に下向し淀殿の説得を試みようとしたとされます。

この時、家康は、ねねの甥にあたる木下利房に命じ、高台院屋敷近くに布陣させ、ねねの動きを阻止しました。

大坂の陣で、なんとしても豊臣家滅亡を目論んでいた家康にとって、ねねが動くことによる影響力は脅威であったのです。

大坂冬の陣から約半年後の夏の陣で豊臣家は滅びました。この時、ねねは高台院屋敷の高台に建つ望楼から、紅蓮の炎に包まれた大坂城を見届けたと伝わっています。その胸中に去来するものは、どのようなことであったのでしょうか。

2回にわたり、ご愛読をいただきありがとうございました。

 

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