能力はあるはずなのに…ネガティブな性格ゆえに能力を活かしきれなかった戦国武将・毛利隆元:2ページ目
ネガティブな性格が災いし…
隆元のネガティブな性格が災いし、毛利家の方針が変わることもありました。それは天文15年(1546)に元就が隠居を表明した時のこと。
元就の隠居で隆元が当主として毛利家を引っ張っていくのかと思いきや、「父が隠居するならば、私も輝元(隆元の嫡男、この時まだ10歳未満)に家督を譲って隠居します」と書面に残し、実権を握ろうとしませんでした。
隆元自身、父が築き上げてきたものを壊したくない思いや自分の無器量さを嘆いて、そのようなことを記したのでしょう。
元就も隆元の性格を理解していたので、実権は隠居の身である元就が隆元の後見人となりながらも握り続けました。
意外と兄弟仲は悪かった
このような毛利家の体制に兄は頼りないと感じてしまったのか、弟の元春と隆景は毛利家ではなく自身が身を置く吉川家と小早川家を優先するようになり、悩み事があると父の元就に相談しました。
これにはさすがの隆元も怒りを示し、「弟たちが私を除け者扱いしていて、非常に腹がっています」と元就に不満を漏らしました。
元就もこの一件を通して兄弟仲の悪さを痛感し、三矢の教えのモデルとなった三子教訓状を作成するに至ったといわれてます。