5男から今川氏当主へ。戦国大名「今川義元」の家督相続物語 【前編】:2ページ目
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4歳で仏門へ
義元は4歳にして駿河国の善得寺に預けられている。義元と同様に3男の玄広 恵探と、4男の象耳 泉奘も仏門に入っていることから、家督相続権は長男の氏輝と次男の彦五郎に絞られていたことがわかる。
幼き義元は、臨済宗の僧侶であった「太原雪斎(たいげんせっさい)」の元で養育された。その後は雪斎と共に京都の建仁寺に入り「栴岳承芳(せんがくしょうほう)」と名乗った。
父の死と氏輝の家督相続
1526年。義元7歳の年に父・氏親が死去。長男の氏輝が家督を継いだ。義元は氏輝の命によって駿河に帰還した。氏輝は母である寿桂尼の補佐や、相模国(現在の神奈川県)を統治する北条氏との同盟によって政権運営を行うが、10年後の1536年に急死する。
後継当主は氏親の次男である彦五郎であるはずだったが、氏輝と同日に死亡。氏輝と彦五郎の死因は不明で、病死説や暗殺説など様々な憶測が存在している。
この後、当主と当主候補を同時に失った今川家は混乱。家内を二分する内紛に発展することとなる。
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