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5男から今川氏当主へ。戦国大名「今川義元」の家督相続物語 【後編】

5男から今川氏当主へ。戦国大名「今川義元」の家督相続物語 【後編】

駿河国の戦国大名「今川義元(いまがわよしもと)」は、5男でありながら今川氏の家督を相続した。

今回は、【前編】に引き続き、今川義元の家督相続の道程をご紹介する。

前回の記事

5男から今川氏当主へ。戦国大名「今川義元」の家督相続物語 【前編】

戦国大名として名門・今川氏の全盛期を築き上げた「今川義元(いまがわよしもと)」。しかし、義元が今川家の当主となる過程には、様々な障害や偶然が存在したことはあまり知られていない。今回は、今川氏当…

還俗から当主候補へ

当主継承の可能性が低いと見られていた義元だったが、当主・氏輝と次男・彦五郎の相次ぐ死によって有力な継承候補となる。

寿桂尼の子であることを理由に当主継承を乞われた義元は還俗した。その際に主君である室町幕府12代将軍足利義晴から偏諱を賜って、正式に「義元(よしもと)」と名乗った。

しかし、今川氏傘下の有力国人であった福島氏が義元の家督相続に反対。外戚にあたり、氏親の3男である義元の庶兄・玄広恵探(げんこうえたん)を擁立し、義元方に反旗を翻した。

花倉の乱(はなくらのらん)

寿桂尼の尽力によって義元方と恵探方は話し合いを試みるも失敗。1536年。恵探は駿河湾に面した久能城を拠点に挙兵。義元の居る今川館を襲撃する。

しかし、義元方は参謀である太原雪斎の活躍などもあり、返り討ちに成功。恵探方は花倉城まで退き抵抗を続けた。

義元は恵探方の支城を落とし花倉城を包囲。城攻めを開始する。追い込まれた恵探は逃亡先の瀬戸谷の普門寺で自刃した。享年19。

今川家中のお家騒動に発展した「花倉の乱」は2週間程度で終息しており、武田氏や北条氏の援護を受けた義元方の圧勝であったという見方が通説とされている。しかし、恵探方の後ろ盾となった福島氏は、遠江の高天神城を中心に勢力を有した一族であり、恵探方の支持基盤もそれなりの規模であったことを理由に、大規模な内乱とする説も存在する。

2ページ目 東海道の支配者へ

 

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