冥途もお供いたします…政略結婚にも愛はあった。武田家滅亡に殉じた悲劇のヒロイン・北条夫人【下】:3ページ目
「冥途もお供いたします」天目山で壮絶な最期
「……仕えて日の浅い国人衆が時の利害によって強き者へ寝返るはやむなき事とて、日ごろ御屋形様より厚遇されてきた譜代や御一門衆の裏切りは道理に合いませぬ!」
北条夫人は勝頼の武運と裏切り者たちの調伏を祈願して、武田家の氏神である武田八幡宮(現:山梨県韮崎市)に願文を奉納しました。
「(前略)……みき(右)の大くわん(願)ちやうしゆ(成就)ならは かつ(勝)頼 我とも(倶)にしやたん(社壇)みかき(御垣)たてくわいろう(回廊)こんりう(建立)の事うやまつて申(す)
天正十ねん(年)二月十九日 みなもと(源)のかつ頼 内(うち)」【意訳】
……以上、大願成就の暁には、勝頼と私で社殿や玉垣を建て、回廊も増築いたします……年月日 源(武田)勝頼の家内より。
いつか武田家の安泰を取り戻し、夫婦仲良く八幡様に奉仕できますように……そんな願いもむなしく、いよいよ織田の軍勢が甲斐国へなだれ込んで来ると、勝頼は北条夫人らを連れて岩殿山城(現:山梨県大月市)を守る譜代の家老・小山田信茂(おやまだ のぶしげ)を頼りました。
しかし、信茂はとっくに織田へ寝返っており、あっけなく拒否されたばかりか鉄砲まで撃ち放ったというからあんまりです。
「……もはやこれまで……女子供を道連れにするのは忍びない。そなたは北条の実家を頼って落ち延びるがよい」
散々にさまよった挙句、天目山(現:山梨県甲州市)までたどり着いた勝頼は、北条夫人たちだけでも解放しようと彼女に離縁を申し出ますが、それは受け入れられません。
「いえ……ひとたび寄り添うた夫婦(めおと)なれば、冥途までお供いたしとうございます」
かくして勝頼親子3人以下武田主従は自決(勝頼37歳、北条夫人19歳、信勝16歳)、ここに甲斐源氏の名門・武田家は滅亡したのでした。
【北条夫人 辞世の句】
黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒
【意訳】乱れ髪のような世の中に、色々思うことはあるけれど、すべて露のように儚く消えゆくばかりです。帰る雁 頼む疎隔(そかく)の 言の葉を 持ちて相模の 国府(こふ)に落とせよ
【意訳】飛んで行く雁よ、私の実家を通るなら「ごめんなさい」と伝えておくれ……私は、もう帰れないから。
終わりに
落陽の武田家に嫁ぎ、その滅亡まで七年間、最期まで勝頼を支え続けた北条夫人。
歴史に「if(もしも)」はないとよく言われますが、もし上杉家のお家騒動において、勝頼が北条夫人のすすめ通りに景虎に味方し、北条家と強固に連携し続けられていたら……そう考えると、北条夫人は武田家存亡のカギを握るキーパーソンだったと言えるでしょう。
自刃した勝頼親子は徳川家康が建立した景徳院(現:山梨県甲州市)の境内に葬られ、今も甲州の人々を見守り続けています。
【完】
※参考文献:
瀧澤中『「戦国大名」失敗の研究』PHP文庫、2014年6月
丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』平凡社、2017年9月
平山優『武田氏滅亡』角川選書、2017年2月