滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」【その1】:2ページ目
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幸盛の奮闘と尼子家の滅亡
1563年から64年にかけて尼子家は領土内に存在する「白鹿城」と「尾高城」が落城。これらの城は、島根半島と本拠地である「月山富田城(がっさんとだじょう)」の補給拠点として重要な要所であっため、尼子軍の戦力は大きく低下した。
翌1565年、毛利軍は月山富田城への攻撃を開始。尼子軍はよく戦い、毛利軍による3度の総攻撃を撃退することに成功した。
しかし、1567年にはいよいよ兵糧が枯渇し逃亡する兵士も現れ始めた。毛利軍は兵糧を用意して尼子軍の投降を巧みに誘ったとも伝わる。奮戦も虚しく結果的に義久は毛利軍に降伏。義久は弟たちと共に幽閉されることとなり、戦国大名尼子家は滅亡した。
幸盛は主君に追従することを希望したが許されず、出雲大社で主君と別れることとなった。
【幸盛の武功】
63年の白鹿城の戦いでは撤退の際の殿(しんがり)を努め、毛利軍を数度に渡って撃退。敵の首をいくつも討ち取る活躍を見せる。
65年に毛利軍が尼子軍本拠地である月山富田城を攻めた戦いでは、毛利軍の「高野監物」を一騎討ちで討ち取っている。
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