江戸時代にも活躍していた!武田信玄の軍師・山本勘助の伝説を受け継いだ子孫たち【上】:3ページ目
三代目・山本十左衛門尉幸俊
※生年不詳~慶長二1597年没
甲斐国臼井阿原郷(現:山梨県中央市臼井阿原)の領主・饗庭越前守利長(あえば えちぜんのかみとしなが)の次男として生まれ、天文二十1551年に男子のなかった山本菅助(初代・晴幸)に婿入りします。
しかし、その2年後に兵蔵(二代目菅助・幸房)が生まれたため山本家の跡取りから外され、初代菅助が川中島で討死した後は、兵蔵の後見人となります。
そして天正三1575年「長篠の合戦」で兵蔵が討死すると山本家の家督を継承、武田家より鉄炮・鑓(槍)5名の軍役を課せられますが、先代に課せられた小者6名に比べて負担が重くなっており、長篠の敗戦以来、傾きつつあった武田家の苦境が察せられます。
それでも幸俊は期待に応えるべく必死に武田家を支えますが、ついに天正十1582年3月11日に武田家が滅亡。主を失った甲斐・信濃・上野国は南から徳川家康が、東から関東の雄・北条氏直(ほうじょう うじなお)が乗り込み、また現地の諸勢力も叛旗を翻しての大混乱に陥りました(天正壬午の乱)。
この時、幸俊は所領の安堵を条件に家康への臣従を決断。他の武田遺臣たちと共に「信玄直参衆」として旗本に取り立てられます。
その後、慶長二1597年に亡くなり、家督は嫡男の平一郎幸明(へいいちろう ゆきあき)が継承しました。
※参考文献:
海老沼真治編『山本菅助の実像を探る』戎光祥出版、2013年
丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
笹本正治『軍師山本勘助―語られた英雄像』新人物往来社、2007年
山梨県立博物館編『実在した山本菅助』山梨県立博物館、2010年