明智光秀(あけち みつひで)の謀叛によって戦国の革命児・織田信長(おだ のぶなが)が殺された本能寺の変。
その動機については「信長のパワハラ」とか「室町幕府の復興」とか、あるいは「秀吉の陰謀」とか諸説ありますが、一人の女性がその遠因となったとする説もあるようです。
御ツマキの方(御ツマ木、御妻木殿など)と呼ばれたその女性は明智光秀の妹だそうで、今回は彼女のエピソードを紹介したいと思います。
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信長のお気に入り?公卿たちも無視できない影響力
御ツマキの方は光秀の妻・妻木煕子(つまぎ ひろこ)の身内と見られ、歴史的仮名遣いでは濁点が略されるため、当時は「おつまぎのかた」などと呼ばれていたのでしょう。
光秀にとっては義理の妹に当たるようですが、各史料にはしばしば「妹」と記録されていることから、実の妹同然に分け隔てなく接していた光秀の人柄がうかがわれます。
史料によると、天正五1577年11月に大和国(現:奈良県)で興福寺と東大寺の諍(いさか)いが起きた際、光秀と二人で信長に仲裁を求めた記録や、天正八1580年には公卿たちが上洛した信長へ進物を献上する際、彼女にも帯や酒などを届けたことが伝わっています。
これらのエピソードから、彼女が(1)信長に頼み事が出来る関係にあったこと、(2)公卿たちも無視できない影響力を持っていたこと、つまり「信長のお気に入り」であったことが推測できます。
そんな御ツマキの方ですが、天正九1581年8月7~8日ごろに亡くなってしまいました。
「去七日・八日ノ比歟(=頃か)、惟任(これとう。光秀)ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州(日向守=光秀)無比類(比類なき)力落也」
※興福寺『多聞院日記』より。
文中「信長一段ノキヨシ」という表現について、歴史学者の勝俣鎮夫氏はこのキヨシを「気好し」と解釈。御ツマキの方が信長のお気に入りであり、信長との仲を取り持ってくれた彼女を失ったことで光秀は政治的にダメージを受け、それが信長のパワハラを生み(orエスカレートさせ)、それが本能寺の変の遠因になったのでは、と推測しています。