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諸行無常の響きあり…裏切りに絶望した悲劇の貴公子・平清経の生涯(上)

諸行無常の響きあり…裏切りに絶望した悲劇の貴公子・平清経の生涯(上):3ページ目

平家一門の都落ちに際し、名刀「吠丸」と「鵜丸」を持ち去る

かくて燎原の炎のごとく燃え立った反平家の機運は、もはや消し止め得ない勢いとなっていました。

寿永二1183年7月、信濃国の豪族・木曾冠者(きそのかじゃ)こと源次郎義仲(みなもとの じろうよしなか。木曾義仲)が北陸道から破竹の勢いで京の都へ進軍してくるに至って、各方面で戦っていた清経ら平家一門の武将は急ぎ呼び戻されました。

「京の都は攻めるに易く、守るに難し。ここはかつて父上(平清盛)がいっとき都を移された福原(現:兵庫県神戸市)に再び移り、再起を図ろうぞ」

亡き清盛の跡を継いで平家一門の棟梁となっていた平宗盛(たいらの むねもり。清盛の三男)が京都からの撤退=都落ちを決定。

平家一門は幼い帝(安徳天皇。平清盛の外孫)を連れて京の都を離れますが、その時に清経は法住寺殿(ほうじゅうじどの。後白河法皇の御所)から吠丸(ほえまる)と鵜丸(うのまる)という二振りの名刀を持ち去ったと言われています。

(※ちなみに、この吠丸は「夜になると蛇が啼く=吠えるような音を出す」ため、鵜丸は「庭池から鵜がくわえてきた」ため、その名がつけられたそうです)

しかし、やんごとなき身分の清経が、いくら名刀とは言え他人様の持ち物に執着するとは思えませんが、一体どうしてでしょうか。

その時、当の後白河法皇は平家一門の都落ちを事前に察知し、実質的な人質にされないよう予め御所から脱出。法皇を(人質にしようと)連れ出しに来たものの、しくじってしまった腹いせか、あるいは「これほどの名刀を、物の値打ちも解らない田舎武士どもにくれてやるのは惜しい」と思ったのかも知れませんね。

(※この時、後白河法皇を逃した失態が、後に平家一門の致命傷となるのですが、詳細は別稿に委ねます)

さて、都を落ちた平家一門は、かつて平清盛が遷都を強行した福原(現:兵庫県神戸市)を目指すのですが、果たして捲土重来はなるのでしょうか。

【続く】

※参考文献:

『ビジュアル源平1000人』世界文化社、2011年11月1日、第1刷
梶原正昭ら校注『平家物語 下 新日本古典文学大系45』岩波書店、1993年10月27日、第1刷

 

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