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諸行無常の響きあり…裏切りに絶望した悲劇の貴公子・平清経の生涯(上)

諸行無常の響きあり…裏切りに絶望した悲劇の貴公子・平清経の生涯(上):2ページ目

18歳で颯爽と初陣!平清経のプロフィール

平清経は長寛元1163年、平重盛(たいらの しげもり。平清盛の長男)の三男として生まれ、平清盛の孫に当たります。

母親は重盛の正室・藤原経子(ふじわらの けいしorつねこ)、同母弟には四男・平有盛(ありもり)、五男・平師盛(もろもり)、六男・平忠房(ただふさ)がいます。

幼少の頃より眉目秀麗、利発聡明で諸芸に豊かな才能を見せたそうですが、こと横笛の腕前は一門の中でも抜きんでていたと言われています。

しかし決して文弱という訳ではなく、初陣は治承四1180年5月26日、三井寺(みいでら。園城寺)に攻め込んで以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとの よりまさ)の起こした謀叛(以仁王の乱)を鎮圧。颯爽と采配を執る18歳の若武者ぶりに、家人たちも大いに奮い立ったことでしょう。

この乱を契機として、全国各地で頼朝公をはじめとする反平家勢力が挙兵。平家一門はその追討に当たるのですが、清経は墨俣川の合戦(治承五1181年4月25日)源行家(みなもとの ゆきいえ。頼朝公の叔父)と義円(ぎえん。頼朝公の異母弟)の連合軍を撃破するなど、赫々たる武勲を立てます。

これらの功績から寿永二1183年4月、正四位下 左近衛権中将(さこのゑ ごんのちゅうじょう)に叙任されますが、平家一門の絶頂期を築き上げた最高権力者にして精神的支柱であった祖父・清盛の病没(治承五1181年閏2月4日)以来、平家一門の権勢は明らかに陰りを見せていました。

(※ちなみに、父・重盛は治承三1179年7月29日に亡くなっています)

3ページ目 平家一門の都落ちに際し、名刀「吠丸」と「鵜丸」を持ち去る

 

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