女性関係にルーズな吉宗ゆえ?将軍・徳川吉宗の”落とし子”と称する者が巻き起こした「天一坊事件」とは?
突然ですが、江戸幕府8代将軍にして中興の祖である徳川吉宗の御落胤(ごらくいん…正妻以外の女にひそかに生ませた子)を称した者がいたことはご存知でしたか。
名前は天一坊改行(てんいちぼう-かいぎょう)といい、当時はこの人物を巡って幕府が動かざるを得ない事態(天一坊事件)にまで発展したほどです。
そんな世間を騒がせた天一坊について今回はまとめてみました。
母の死がきっかけで御落胤と称す
天一坊は永禄12年(1699)に紀州の田辺で生まれました。天一坊は母が和歌山城へ奉公に上がっていた時に吉宗に手を付けられ、実家で天一坊を産んだと聞かされていました。
その後は母と共に江戸へ移動し、母が町人と結ばれ何不自由ない生活を送っていました。しかし、14歳の時に母が亡くなったのを契機に天一坊は出家して山伏になります。
その頃から「自分は徳川吉宗の御落胤」と名乗るようになります。このような行動を取ったのは母から聞いた話と亡き伯父から「いつか幕府から使者が来るはずだ」と言われていたことがそうさせた原因でした。