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女性関係にルーズな吉宗ゆえ?将軍・徳川吉宗の”落とし子”と称する者が巻き起こした「天一坊事件」とは?

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天一坊は果たして吉宗の御落胤?

享保14年(1729)になると忠逵は天一坊を捕らえます。忠逵によって天一坊は「吉宗様からお腰物を貰っている」という嘘をついていたことがわかりました。

このことによって天一坊は吉宗の御落胤ではないことが判明し、同年4月に品川・鈴ヶ森刑場で獄門に処されました。

この事件は天一坊事件といい、『大岡政談』に収められているので、大岡忠相が裁いたと思われがちです。

しかし、町奉行管轄外の事件だったので忠相はこの事件に一切関与していません。しかし、『大岡政談』に収められたことにより、後に歌舞伎となり有名となりました

また、天一坊は源氏坊天一と名乗っていたとされています。

最後に

勘違いから生まれた天一坊事件。もし、御落胤であるということを証明できる品を持っていれば歴史は大きく変わっていたかもしれません。

手あたり次第手を付ける女性関係にルーズな吉宗だからこそ、この事件は起こってしまったと考えてしまいますね。

参考:島崎晋『ざんねんな日本史』

 

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