「御堂関白」といわれた藤原道長。実は生涯、関白になることはなかった:3ページ目
関白にならぬまま引退 そして全てを手に入れた
1016(長和5)年、三条天皇が譲位し、道長の孫である9歳の後一条天皇が即位することによって、天皇の外祖父となった道長はようやく摂政となることができました。
通常であれば、このあと関白となって引き続き政務を見るところなのですが、約1年後、摂政を長男の頼道に譲ってしまいます。さらに、翌年任命された太政大臣も2か月ほどで辞しています。
辞職の理由については記録が残されておらず、はっきりしたことはわからいないのですが、一説によれば、このころの道長は天皇をもしのぐ絶大な権力を手にし、もはや摂政や関白、太政大臣などという官職や位階などに拘泥する必要がなくなったと考えられています。
誤解の原因になった『御堂関白記』は、元々『御堂御日記』、あるいは『御堂御記(みどうぎょき)』と呼ばれていたもので、「御堂」とは晩年に道長がその建立に心血を注いだ法成寺のことを指します。これが、「道長ほどの人物ならば当然関白になっていただろう」という思い込みから江戸時代以降、「御堂関白」と呼ぶようになったと考えられています。
藤原道長。結局、すべてを手中におさめることができたその男は、とてつもなく不器用な男でもあったのです。
参考