「御堂関白」といわれた藤原道長。実は生涯、関白になることはなかった:2ページ目
道長も人間関係で苦労した ~実は苦労人だった青壮期~
道長が成人した後に兄の道隆、道兼が相次いで亡くなり、一族の筆頭格になりましたが、実は同じころにもう一人、有力者がいたのです。それが道隆の子・伊周(これちか)で、次期関白として有力視されていました。
道長と伊周は仲が悪かったのですが、当時の伊周は内大臣。権大納言である道長より位が上であり、また当時の一条天皇からの覚えもめでたい様子でした。道長にとって伊周は甥ではありましたが、邪魔な存在でした。
ところが、一条天皇の生母が道長の姉・詮子だったことから立場が逆転します。詮子が天皇に働きかけて道長は内覧に任命され、伊周より上の立場になります。
その後、右大臣に昇進し、伊周と弟・隆家が花山天皇を射るという事件を起こすと、隆家を出雲権守に左遷するとともに伊周も太宰権帥に左遷してしまいました。
もう道長、姉ちゃんに頭が上がりません!!
こうして伊周を取り除いた道長でしたが、それでも関白になることはできませんでした。
その理由は、一条天皇が許さなかったからだといわれています。では、どうして一条天皇は、道長を関白にしなかったのでしょうか。
実は、一条天皇は詮子に懇願されてしかたなく道長を内覧にはしましたが、実はかねがね自ら政治を取り仕切りたいと思っていました。そのため、道長の関白の宣旨を拒み続けたのでした。
1011(寛弘8)年、一条天皇が崩御し、道長が関白となるのに阻害するものが何もなくなったかに思えますが、実際は次の三条天皇も自分の思うままに政治を行おうとした上に、道長とは馬が合いませんでした。2人の関係がどんどん険悪となる一方で、三条天皇の時代にも道長は関白にされなかったのです。
今も昔も、仕事での人間関係がうまくいかないと、出世にも影響を与えますね。