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憎まれっ子、世に憚る!父親の仇討ちで新選組に入隊した三浦啓之助の生涯を追う【下】

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エピローグ

さて、明治維新が成って新しい世となり、そろそろ悪行の余熱(ほとぼり)も冷m……もとい、学問もよかろうと仕官先を求めた啓之助は、すっかり定着してしまった悪名を払拭しようと思ったのか、名を元の恪二郎から頭文字をとって恪(いそし)とし、名字も三浦から佐久間に戻して佐久間恪(さくま いそし)と称しました。

そして司法省に押しかけ、自分が「天下に名高き佐久間象山先生の息子である」ことを最大限にアピールして職にありついたまでは良かったのですが、世が収まった安堵感からか又しても悪行の心が芽生えてしまい、あろうことか警察官と喧嘩騒ぎを起こして懲戒免職。

法の番人が率先して法を犯してどうするんだ……そんな勝海舟の苦い顔が浮かびそうですが、それしきで懲りるようなタマでもなく、悪い意味で父・象山ゆずりの図太さを発揮して、今度は松山県(現:愛媛県松山市)で裁判所判事に就任。

法を犯した人間が他人を法で裁く(権力を握る)不条理に、採用担当官は何も感じなかったのか、それとも個人の前歴に関する調査が大らかだったのか、恐らく後者だったのでしょう。

しかしそんな恪も悪運が尽きたのか明治十1877年2月26日、食中毒であっさり亡くなってしまいました。享年31歳という若さでしたが、日ごろの行いが行いだけに、怨みを買った誰かに一服盛られたのかも知れません。

父親譲りの明晰な頭脳を、これまた父親譲りの傲慢さで活かす機会を逸したその人生は、まさに「憎まれっ子、世に憚る」を地で行ったものでした。

※参考文献:
前田政記『新選組 全隊士 徹底ガイド』河出文庫、平成十六2004年1月
新人物往来社『新選組大人名辞典(下)』新人物往来社、平成十三2001年2月

 

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