奇こそ我らの誉なり!寛政期に活躍した寛政の三奇人を紹介
江戸時代の終盤にあたる寛政期では寛政の三奇人なる3人が現れました。この3人に使われている「奇」はおかしな人という意味ではなく優れた人という意味で使われていました。
何が優れていたかというと後の時代に大きく影響を与えた思想となる尊王論と海防論の先駆者となった点でした。
そんな3人を今回は紹介したいと思います。
外国の脅威に備えて海防論を説いた林子平
まず1人目は経世論家の林子平です。
子平は元文3年(1738)に幕臣の次男として産まれますが、父が浪人になってしまい流浪の身となります。
その後は兄が仙台藩に仕えることになり、仙台藩士として生活していくことになります。
子平はこの頃に松前から長崎まで全国巡りを行い、大槻玄沢(おおつきげんたく)や工藤平助(くどうへいすけ)などの多くの洋学者と交友関係を持ちました。
彼らを通じて海外事情を学んだ子平はロシアの南下政策に脅威を抱き、天文5年(1785)に『三国通覧図説』、天文7年(1787)に『海国兵談』を著しました。
特に『海国兵談』は日本を海外から守るため、海軍の充実化と沿岸砲台の設置の必要性を説いた書物でしたが、寛政の改革で『三国通覧図説』と共に発禁、版木の没収の処分を受けてしまいます。
それでも諦めずに写本を作りますが、最終的には仙台へ強制的に戻され、謹慎処分を受けます。
その後、寛政5年(1739)に56歳で亡くなります。
子平が説いた海防の必要性は幕末になってようやく理解され、台場の砲台の設置に一役買い、幕末海防論の起点となりました。