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奇こそ我らの誉なり!江戸時代の寛政期に活躍した「寛政の三奇人」を紹介

奇こそ我らの誉なり!寛政期に活躍した寛政の三奇人を紹介:3ページ目

前方後円墳の生みの親、蒲生君平

最後は儒学者、尊王論者、さらに海防論者でもある蒲生君平です。

君平は明和5年(1768)に産まれました。

先祖は戦国武将の蒲生氏郷と聞いた幼い頃の君平は先祖の名に恥じないように勉学に励みました。

熱心に勉学に励み過ぎて川の氾濫で橋が流されても着物と書物を頭の上に乗せ褌で塾まで通うことまでしたので周囲からは狂人と揶揄されていました。

君平はこの頃、『太平記』を読んだことと水戸の勤王志士、藤田幽谷の影響を受けたことで勤王思想に目覚めます。

寛政2年(1790)には彦九郎を慕って仙台城下にいる子平に会いに行きました。子平は君平の粗末な恰好を見るや「その恰好は何だ」と笑いました。

これに怒った君平は「礼儀の知らない爺が思い上がるな」と言って帰ってそうです。

その後の君平は寛政4年(1792)に『今書』で当時の時勢を論じ、享和元年(1801)に寛政8年(1796)から記述していた『山稜志(さんりょうし)』を完成させます。

この書物は幕末の尊王論の根拠とされています。また、『山稜志』で用いた古墳の形(前方後円)が現在の前方後円墳の用語として残っています。

文化4年(1807)にはロシアの脅威や北辺防備の薄さに対して海防を唱えた『不恤緯(ふじゅつい)』を著して幕府に献上しますが、幕府の警戒を受けることになってしまいます。

その後は江戸に住まいを移しますが、文化10年(1813)に赤痢により46歳で生涯を閉じます。

最後に

当時は誰も思いつかないことをやろうとしたので可笑しな人という意味で奇人と呼ばれていたかもしれません。

しかし、時代が幕末になると3人のやってきたことが報われるようになります。

この時から優れた人という意味で3人は寛政の三奇人と呼ばれてきたと考えられますね。

 

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