蟄居、島流し、切腹など江戸時代の武士への刑罰にはどんなものがあったの?
江戸時代にはどんな刑罰があったのでしょうか。
町人や僧侶など階級によって刑罰が違いますので、今回は武士への処罰を一部ご紹介しましょう。刑の軽いものから記していきます。
遠慮(えんりょ)
自主的に行う意味合いが強く、門を閉ざして日中は外出を控えます。ただし訪問客は受け入れてもよく、夜も目立たないように外出すれば黙認されました。僧侶も科せられた刑です。
逼塞(ひっそく)
門を閉ざして白昼の出入を許さないこと。閉門より軽く、三十日・五十日の二種ありました。僧侶も科せられた刑です。
閉門(へいもん)
蟄居より軽く、逼塞より重い監禁刑です。屋敷の門扉は交叉された竹竿で閉ざされ、召使いなどの出入りは禁じられ、当主は一室で謹慎します。期間は50日間と100日間の二通りありました。
当主の気分を害したり不手際があると直ちに命じられるものなので、事例の多い刑の一つです。
蟄居(ちっきょ)
これもよく耳にする刑罰の一つですね。幕末期には最後の将軍・徳川慶喜が上野寛永寺に蟄居しました。実は蟄居は「蟄居・蟄居隠居・永蟄居」の三段階あります。
屋敷内の一室に自ら閉じこもり、髪結いもひげ剃りも入浴もせず、室内から一歩もでません。例外は便所のみで、食事は家族が運びます。慶喜のように、反乱や反逆の意志がないことを示すために自発的に行う者もおりました。
蟄居隠居は家督を譲り当主としての権限を一切失うことです。ただし、家禄や武士としての身分はそのままです。
永蟄居は改易一歩手前の終身刑のようなもので、座敷に牢格子をはめられることもあり、一歩も外出できません。
こうしてみると、隠居は家禄が維持される点で悠々自適の生活を送れるイメージがありますが、一度隠居すると二度と復職できません。失態や失政などで、若いのに強制的に隠居させられた場合、武士としての人生は終わったものと同然。そのように考えるとやはり酷な刑と言えるでしょう。
これら自宅での監禁刑には、当然ながら門番が交代で見張りにつきました。