【豊臣兄弟!】千利休と羽柴秀次が切腹…2人の介錯を務め「首」を斬った武将・雀部重政の悲劇的な末路
古来、武士たちはその最期に「切腹」を選ぶことが少なくありませんでした。
しかし、腹を切ったからといってすぐに絶命できるわけではなく、苦痛を長引かせないために「介錯(かいしゃく)」を頼むケースが大半だったようです。
(※介錯:本来は介助する意味でしたが、武士の切腹においては、苦しまないよう一思いに首を斬ってトドメを刺す役割を指すようになりました)
大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも注目される、豊臣秀吉・秀長兄弟の天下取り。しかし、秀長の死を境に豊臣政権では粛清が相次ぎ、悲惨な事件が次々と引き起こされます。
今回は、その悲劇の渦中に巻き込まれ、あろうことか自らの手で「師匠」と「主君」の介錯を務めることになった戦国武将・雀部重政(ささべ しげまさ)をご紹介します。
果たして彼はどんな人物で、なぜそのような数奇な生涯をたどることになったのでしょうか。
三好康長→羽柴秀次に仕える
雀部重政は永禄2年(1559年)、雀部伊豆守(いずのかみ)の次男として誕生しました。
伊豆守は阿波国を本拠地に畿内を牛耳っていた三好長慶に仕え、2万8千石の所領を有していたと言います。かなり裕福な生活を送っていたことでしょう。
重政は兄の雀部六左衛門(ろくざえもん)とともに成長し、元服後は三好康長に仕えて玄蕃允(げんばのじょう)と呼ばれました。
やがて天正11年(1583年)ごろに康長が宮部吉継(秀吉の甥で姉ともの長男)を養子に迎えると、重政は吉継改め三好信吉(後の羽柴秀次)に仕えます。
秀吉の天下一統を見届ける
重政は秀次の身辺を警護する馬廻組頭に抜擢され、尾張国に2千石の所領を賜りました。
天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いにも従軍し、窮地に陥った秀次を懸命に守り抜いたことでしょう。
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また武辺の奉公だけでなく茶の湯も嗜んでおり、千宗易(千利休)に弟子入りしていたそうです。
その後も天正13年(1585年)の紀州征伐・四国征伐に従軍し、秀次の身辺警護を務めました。
※天正15年(1587年)の九州征伐では秀次が京都の留守居役を務めているため、出陣はしていません。
そして天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍して秀吉の天下一統を見届けます。
同年10月には従五位下・淡路守の官位を賜り、また豊臣の姓を許されました。この辺りが、重政にとって人生のピークだったと言えるでしょう。

