『豊臣兄弟!』別所長治を破滅へ導いた男?毛利派の叔父・別所賀相と“豪勇すぎる妻”波の最期
織田信長の中国侵攻に伴い、織田につくか毛利につくかで揺れ動いた別所家。その中で毛利派の中心人物の一人だったのが別所賀相(べっしょ-よしちか、演:田中美央)です。
とはいえ、賀相の知名度は決して高くなく、『豊臣兄弟!』で初めてその名を知った方も多いのではないでしょうか。
そこで今回は、賀相を少しでも知ってもらうために生い立ちを紐解いていきします。さらに、賀相の妻・別所波の男に引けを取らない武勇伝も紹介していきます。
弟・重棟とは不仲だった
賀相は別所氏の最盛期を築いた当主・別所就治(なりはる)の次男として生まれます。
賀相に関して、生まれ年や幼名といった不明な部分が多く、幼年期や青年期の賀相がどのように過ごしていたのかわかっておりません。
そんな謎に包まれた賀相が歴史の表舞台に登場するのは、元亀元年(1570)。兄の別所安治が病死した時でした。
この時、10代で新たな当主となった別所長治を支えるため、賀相と賀相の弟・重棟(しげむね)が補佐にあたります。本来であれば、賀相と重棟が対立せずに若年の長治を支えていくのが当たり前ですが、両者の間には大きな溝ができていました。
これができた原因は、重棟が三好三人衆と戦いでの活躍を足利義昭に称賛され、別所家中での権力を高めたためです。
その状態のまま、天正5年(1577)に秀吉が播磨平定のために播磨国に入国。長治は秀吉に従い、織田の味方になりますが、翌天正6年(1578)に毛利に寝返った後に三木城に籠城しました。
寝返った原因として、秀吉が多くの別所家の城を破壊したことで発生した不満や毛利家の保護下にいた義昭による離反工作を受けていたことが挙げられます。
また、賀相主導の元、長治に寝返りを勧めたと『別所長治記』や『播磨別所記』に残っています。
特に『播磨別所記』では元凶となった賀相を、目上にへつらい口達者な人を指す佞人(ねいじん)と呼んでいます。

