『豊臣兄弟!』別所長治を破滅へ導いた男?毛利派の叔父・別所賀相と“豪勇すぎる妻”波の最期:2ページ目
自害を拒否した賀相
織田に反旗を翻し籠城したものの、待っていたのは兵糧問題でした。
現状として5つの支城を攻略された上に三木城を包囲されていたので、兵糧不足になるのは目に見えていました。
賀相はこれを打破すべく天正7年(1579)に兵を率いて、秀吉のいる平井山の本陣に奇襲を仕掛けます。平井山合戦と呼ばれるこの戦いは、地形や人数において不利だったこともあり、長治の弟・治定の討ち死にした末、敗北しました。
その後も賀相は3,000人の兵を率いて城外の大村付近で戦うも連戦連敗を期します。
そして、天正8年(1580)1月に兵糧が尽きてしまい、「三木の干殺し」の状態となってしまいました。残った2つの支城も失い、三木城のみとなった中で飢えも重なり、戦う気力は失われていました。
もはやこれまでと悟った長治は、一族の自害を条件とする降伏に応じます。しかし、それを良しとしない賀相は三木城を燃やして跡形もなくすことを考えますが、家臣の手にかかり死亡しました。
賀相に関して生存説が残っており、磯野多右ヱ門と名を変え儒学者となった後に文禄4年に死亡。子孫は子の吉成、孫の成忠と続き、成忠の代で帰農しました。
また、落ち延びた賀相の子がいたとされ、別所伝右衛門と名乗って加藤嘉明に仕えたといわれています。
