『豊臣兄弟!』現代に続く松永久秀の子孫たち…父と炎に消えた嫡男・松永久通の生涯と、松永家のその後
天正5年(1577年)10月10日、大和信貴山城(しぎさん。奈良県平群町)に籠城していた松永久秀(まつなが ひさひで)が、天守閣に火をかけて壮絶な最期を遂げました。
その傍らには嫡男の松永久通(まつなが ひさみち)もおり、運命を共にしたと言われています。
今回はこちらの松永久通を紹介。果たしてどんな生涯をたどったのでしょうか。
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将軍暗殺!永禄の変に加担する
松永久通は天文12年(1543年)1月8日、久秀の嫡男として誕生しました。幼名は不詳、生母についても詳しいことはわかっていません。
元服(成人)して通称を彦六(ひころく)、諱(いみな。実名)を久通と名乗ります。そして21歳となった永禄6年(1563年)の閏12月には従五位下(じゅごいのげ)・右衛門佐(うゑもんのすけ)に叙せられました。
これを記念してか父より家督を譲られ、また大和多聞山城(たもんやま。奈良県奈良市)の城主となります。
翌永禄7年(1564年)になると父の主君に当たる三好義継(みよし よしつぐ。三好長慶の養嗣子)に従って上洛し、第13代室町将軍・足利義輝に拝謁しました。
永禄8年(1565年)5月1日には義継や三好長逸(ながやす)らに従って再び上洛、足利義輝に出仕して偏諱(へんき。名前の一文字)を拝領して松永義久(よしひさ)と改名します。
これは主君「義」輝を自分「久」通の上に頂く意思表示でしたが、5月19日には義継・長逸らと共に一万の軍勢を率いて京へ乱入しました。
そして二条御所を襲撃し、足利義輝を弑逆(しいぎゃく。目上の者を殺すこと)してしまったのです。これがいわゆる「永禄の変」で、久通は「義」の偏諱を返上して再び久通と名乗りました。
三好三人衆や筒井順慶との抗争
将軍を殺して中央政治の主導権を掌握した三好一門でしたが、そのやり方に不満を持った久秀は彼らと決別。久通は父と共に三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)と抗争を繰り広げます。
戦況は一進一退、あるいは若干劣勢だったかもしれません。そんな中、永禄9年(1566年)6月に久秀がいきなり姿をくらましました。
これは単に逃亡したのか、あるいは何か考えがあって別行動をとっていたのか、詳しいことはわかりません。
ともあれ久通は多聞山城に立て籠もって孤軍奮闘、特に大和国の支配権をめぐって筒井順慶(つつい じゅんけい)と激しく戦い続けました。
父が切り取り、亡き三好長慶(ちょうけい/ながよし)から拝領した大和国を奪われてなるものかとばかり、死力を尽くして防戦したのです。
およそ一年近くが過ぎた永禄10年(1567年)4月に久秀が戦線復帰を果たし、なおも筒井順慶や三好三人衆と抗争を繰り広げます。
そんな中、永禄11年(1568年)9月に織田信長が足利義昭(義輝の弟)を奉じて上洛したとの報せが入りました。




