『豊臣兄弟!』現代に続く松永久秀の子孫たち…父と炎に消えた嫡男・松永久通の生涯と、松永家のその後:2ページ目
一度目の謀叛で大和国の支配権を失う
久秀はこの機を逃すまいといち早く上洛して義昭(実質的に信長)に臣従し、大和国の支配権を認められます。
賄賂として信長に贈った天下の名物・九十九髪茄子(つくもかみなす。茶入)が功を奏したのは言うまでもないでしょう。
このお墨付きに勢いを得て筒井順慶を攻略し、その勢力を大和国内から一掃することに成功したのでした。
かくして室町幕臣≒織田家臣としてしばらく行動した久秀・久通父子ですが、元亀2年(1571年)になると仇敵であった三好三人衆や三好義継と結託し、信長に叛旗を翻します。
他の反織田勢力に呼応する形で、元亀4年(1573年)に足利義昭も信長討伐の兵を挙げました。しかし義昭はあっけなく鎮圧され、三好の残党らも滅ぼされたことから、松永父子も信長に降伏したのです。よく赦されましたね。
しかし大和国における支配権は松永家から塙直政(ばん なおまさ。大和守護職に新任)と筒井順慶へ移管され、これが二度目の謀叛につながる不満として鬱屈したと考えられています。自業自得としか言いようがありませんが……。
そんな中、久通はおなへ(お鍋)という女性(十市遠勝女)を正室に迎え、居城を龍王山城(りゅうおうざん。奈良県天理市)へ移りました。
婚姻関係を通じて十市一族と連携するのかと思いきや、久通は十市遠長(とおち とおなが。お鍋の叔父)を攻め立て、天正4年(1576年)には大和国外へと追放しています。
当時は十市一族の中で筒井順慶派と松永久秀派が対立していたため、このようなことになったのでした。一族も一枚岩ではなかったのですね。
