『豊臣兄弟!』現代に続く松永久秀の子孫たち…父と炎に消えた嫡男・松永久通の生涯と、松永家のその後:4ページ目
松永久通の最期は?
『多聞院日記』によると、久通は以前に十市遠長から奪取した大和柳本城(やなぎもと。奈良県天理市)に立て籠もり、天正5年(1577年)10月1日に討死したと言います。
別説では柳本城から父の立て籠もる信貴山城へ合流し、父と共に10月10日に自刃して果てたとも言われました。
また『老人雑話』では父の最期を見届けた後に信貴山城を脱出し、石山本願寺を頼って大坂方面へ落ち延びる道中、落ち武者狩りで命を落としたとも言われています。
さて、信貴山城の合戦は10月5日に火蓋が切って落とされました。織田方4万の軍勢が一斉に群がったそうですが、天険の要害である信貴山城は、そう簡単に攻略できるものではありません。
また城内から松永家臣の飯田基次(いいだ もとつぐ)が200余名を率いて出撃、縦横無尽に斬り回って織田兵数百を死傷せしめました。
しかし多勢に無勢であることから、久秀は石山本願寺に援軍を求める使者を発します。使者に選ばれた森好久(もり よしひさ)は、もと筒井順慶に仕えていた人物です。
森は10月7日に信貴山城を出ると、織田陣中に駆け込んで松永方の内情を明かしました。そして10月8日に何食わぬ顔で帰還し、引き連れて来たという加賀鉄砲衆200名と共に三ノ丸の守備につきます。
翌10月9日の戦闘で、三ノ丸から火の手が上がり、久秀らは謀られたことに気づきました。もはや城内は統制を失って松永方は壊滅、久秀と久通は10月10日、天守に火をかけて自刃したということです。
