『豊臣兄弟!』現代に続く松永久秀の子孫たち…父と炎に消えた嫡男・松永久通の生涯と、松永家のその後:3ページ目
覚悟を決めた二度目の謀叛
大和国の支配権を奪還しようとあがいていた松永父子は、天正4年(1576年)5月から石山本願寺攻めに加勢するよう命じられました。
天王寺の合戦(同年5月7日)において塙直政が討死。久通も討死したとの虚報が流れたそうですが、無事に生き残り、武功を立てたようです。
これで大和国の支配権奪還が近づいたかと思いきや、信長は大和国を筒井順慶一人に託すようになりました。
どれほど忠功を重ねようと、もはや大和国の支配権を認められることはありません。そう観念した松永父子は、天正5年(1577年)8月17日に本願寺攻めから離陣し、大和信貴山城へ立て籠もります。
信長は慌てて「何か不満があるのか」「平蜘蛛茶釜さえ差し出せば赦してやる」との思いで松井友閑(まつい ゆうかん)を使者に出しました。
何が不満かって、そりゃ大和国の支配権が得られないことです。そして平蜘蛛茶釜はいわば人質。万が一のことを恐れて信長も下手に手出しできないのであり、差し出せば容赦なく叩き潰しに来るでしょう。
久秀は友閑に会おうともせず、もはや交渉の余地なしと判断した信長は、家臣に命じて久通から人質にとっていた二人の息子(当時14歳と12歳)を処刑させています。
そして織田信忠(のぶただ。信長嫡男)が10万とも言われる大軍を率いて、大和国へ乗り込んできたのでした。
