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南北朝の異端児!「ばさら大名」佐々木道誉とは──派手なパフォーマンスで権力を制した知略と実像【前編】

南北朝の異端児!「ばさら大名」佐々木道誉とは──派手なパフォーマンスで権力を制した知略と実像【前編】

歴史を見ていると、「この人、本当に武将なのだろうか」と思うような人物に出会うことがあります。その代表格のひとりが、南北朝時代の武将・佐々木道誉(ささき どうよ)です。

鎌倉幕府が滅び、日本が大きく揺れ動いた14世紀。この激動の時代に、ひときわ異彩を放った人物がいました。法名の「導誉(どうよ)」の名でも知られる佐々木道誉です。

彼は、派手で奇抜な振る舞いを意味する「ばさら」を体現した武将として、『太平記』などの史料に数多く登場します。

しかし、その実像は単なる奇人ではありません。政治の駆け引きに長けた策士であり、同時に文化にも深く関わった人物でした。

今回は、そんな道誉という人物を、史料に残る事実をもとにのぞいてみたいと思います。

権力闘争を「演出」で制する

道誉の名前を語るうえでよく知られているのが、花見をめぐる逸話です。

1366年、室町幕府の将軍御所で、管領の斯波高経が花見の宴を企画しました。ところが道誉は同じ日に、京都の大原野でさらに豪華な花見を開きます。

軍記物語『太平記』では、この宴の様子が非常に華やかに描かれています。京都中の芸能者を集め、一丈ほどの真鍮の花瓶に桜の大木を立てて飾るという、当時としてはかなり派手な演出だったといいます。

結果として人々の関心は道誉の花見に集まり、斯波高経の面目は大きく損なわれたと伝えられます。高経はのちに失脚しますが、この花見はその象徴的な出来事として語られることがあります。

単なる贅沢ではなく、権力争いを「見せ方」で制する。
こうした振る舞いこそが、道誉が「ばさら大名」と呼ばれる理由でした。

策略に長けた武将

派手な人物として語られることの多い道誉ですが、政治や軍事の世界では非常にしたたかな人物でもありました。

1335年から1336年にかけて起きた建武の乱では、足利尊氏の側に属して戦います。しかし一時は新田義貞に降伏し、その後、箱根・竹ノ下の戦いで再び足利方に戻ります。

軍記物『太平記』では、この離反と再合流が新田軍の崩壊を招き、尊氏軍の勝利につながった知略として描かれています。

また青野原の戦いでは、兵を川を背にして布陣する「背水の陣」を用いたと伝えられています。これは中国史に由来する戦法として知られていますが、日本での実例として語られることもあります。ただし、この点は軍記物に基づく伝承であり、確実な史実とは断定されていません。

それでも、道誉が戦術と政治の両面で優れた能力を持っていたことは、多くの史料からうかがえます。

参考文献

  • 佐々木哲『佐々木六角氏の系譜』 (2006  思文閣出版)
  • 林屋辰三郎『佐々木道誉―南北朝の内乱と「ばさら」の美』(1995  平凡社)
  • 森茂暁『佐々木導誉』 (1994  吉川弘文館)
  • 渡辺守順『京極道誉―バサラ大名の生涯』(1994  新人物往来社)
 

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