卑弥呼の墓はここか?箸墓古墳を検証――倭国を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の古墳【後編】
近年、奈良県桜井市北部の纏向(まきむく)遺跡の発掘成果により、考古学の立場から「邪馬台国の中心地は纏向である」とする見解が有力となりつつあります。
本稿では、邪馬台国畿内(纏向)説の視点から初代女王卑弥呼と二代女王台与、およびヤマト政権の始祖王と考えられる崇神天皇(大王)の古墳を考察します。
【前編】の記事:
卑弥呼の墓はここか?箸墓古墳を検証――倭国を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の古墳【前編】
【後編】では、「箸墓古墳」にまつわる『日本書紀』の記述をもとに、倭国の黎明期を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の墳墓について検証していきましょう。
倭迹迹日百襲姫命伝承の意味とは
「箸墓古墳」は、宮内庁により「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)大市陵」として治定されています。
では、その倭迹迹日百襲姫命とは、いかなる人物なのでしょうか。彼女は第7代孝霊天皇の皇女であり、『日本書紀』崇神紀十年によれば、夫である三輪山の大物主神の真の姿を目にして驚き、腰を抜かした際に陰部を箸で突き、そのまま亡くなったと伝えられています。
これが有名な「箸墓伝説」であり、古墳の名の由来になったと考えられています。
また、倭迹迹日百襲姫命は『日本書紀』において崇神朝のシャーマン(巫女)的存在として描かれており、このため多くの研究者は、彼女を「鬼道」を操った卑弥呼に比定することがあります。
『日本書紀』に「箸墓伝説」が記された意義は非常に大きいといえます。前方後円墳を築造した王権がヤマト政権であるならば、その起源譚をヤマト政権初期の天皇の条に記録しておく必要があったと考えられるからです。
すなわち、「箸墓」の伝承が第10代崇神天皇の条に記載されていることには、明確な意図があったとみられるのです。
天武天皇の時代に『日本書紀』の編纂が始まった時点で、「箸墓」はすでに皇統の起源を象徴する、ヤマト政権にとってシンボル的な存在として認識されていたことは疑いないでしょう。


