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卑弥呼の墓はここか?箸墓古墳を検証――倭国を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の古墳【後編】

卑弥呼の墓はここか?箸墓古墳を検証――倭国を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の古墳【後編】:3ページ目

台与は「箸墓」、崇神は「西殿塚」が真陵か?

最後に、「箸墓古墳」の被葬者像を中心に、私見を述べてこの記事のまとめとしたいと思います。

まず『日本書紀』に記された「箸墓伝説」を素直に受け取るならば、同古墳の被葬者は女性であり、さらにシャーマニズム的な宗教的権威を有していた人物であったとみて差し支えないでしょう。

しかし、「箸墓」の築造年代を最大限に遡っても西暦260年頃とされることから、卑弥呼の没年(248年頃)とは年代的にやはり一致しないと考えられます。

そこで筆者は、辰巳氏の説と同様に、「箸墓」の被葬者は邪馬台国第二代女王の台与であったと推定します。そして、おそらく倭迹迹日百襲姫命と台与は同一人物であった可能性が高いと考えるのです。

倭迹迹日百襲姫命が三輪の大物主の真の姿を知ったことで命を落としたという伝承は、邪馬台国のシャーマニズム的宗教権威から、崇神天皇が奉じる出雲系神祇へと宗教的儀礼が移行したことを象徴しているのではないでしょうか。

また、纏向に本拠を置いた邪馬台国からヤマト政権が発展したのであれば、台与は崇神天皇と並び立つ重要人物であり、その墓である「箸墓」が王墓として特別に重視されたことも理解できます。

とはいえ、この場合、卑弥呼の墳墓は依然として未確定のまま残ることになります。そこで、纏向古墳群の中で「箸墓」に先行する古墳がその有力候補となるのです。

そう考えると、「東田大塚古墳」あるいは「ホケノ山古墳」が最有力となるでしょう。特に、葺石を伴い、その築造年代が卑弥呼の没年に近い西暦250年前後とされる「ホケノ山古墳」が、最も可能性の高い候補であると考えられます。

4ページ目 『魏志倭人伝』の記述を改めて確認してみると……

 

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