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卑弥呼の墓はここか?箸墓古墳を検証――倭国を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の古墳【後編】

卑弥呼の墓はここか?箸墓古墳を検証――倭国を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の古墳【後編】:4ページ目

ただ、『魏志倭人伝』の記述を改めて確認してみましょう。そこには次のように明記されています。

「直径は百余歩(約180メートル)で、約百人の人柱が埋められている」

すなわち、『魏志倭人伝』によれば卑弥呼の墳墓は円形をなし、その墓域は少なくとも直径180メートルに及び、さらに多数の殉死者がともに葬られていたことになります。

「箸墓古墳」の東側に位置する「ホケノ山古墳」がある箸中地区は、古墳が集中して築かれた地域として知られています。ここには、3世紀半ばから5世紀にかけて造営された大小さまざまな古墳が点在しており、その多くはいまだ未発掘のまま残されています。

中には、西暦250年前後の纏向3類土器を出土した、直径50メートルを超えると推定される円墳も確認されています。もしかすると、考古学者や研究者の多くが注目してこなかったこの一帯に、卑弥呼の真の墓所が隠されている可能性も否定できないのです。

そして最後に、ヤマト政権において実在した可能性が高いとされる最初の大王・崇神天皇の墳墓について検証してみましょう。

現在、宮内庁は纏向に隣接する柳本古墳群の「行燈山(あんどんやま)古墳」を、崇神天皇の陵墓「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのうえのみささぎ)」に治定しています。

この治定については、多くの学者・研究者が妥当とする見解を示しています。しかし、初期ヤマト政権における大王墓の系譜をたどると、「箸墓古墳」→「西殿塚古墳」→「崇神天皇陵(行燈山古墳)」→「景行天皇陵(渋谷向山古墳)」の順になるため、「箸墓古墳」を台与の墓と仮定するならば、その後を継いだ大王・崇神天皇の墓は「西殿塚古墳」であるとみることが自然なのです。

さらに「西殿塚古墳」に隣接して、第26代継体天皇の皇后・手白香皇女(たしらかのひめみこ)の真陵とされる「西山塚古墳」が存在します。

『延喜式』には次のような記述があります。

「衾田墓 手白香皇女。在大和国山辺郡。兆域東西二町。南北二町。無守戸。令山辺道匂岡上陵戸兼守」

これを訳すと、「手白香皇女の衾田墓は大和国山辺郡に所在し、東西・南北それぞれ二町(約220メートル)四方の区域を持つが、専属の守戸はなく、山辺道にある匂岡上陵(崇神天皇陵)の守戸が兼務していた」となります。

すなわち、崇神天皇陵は手白香皇女の墓に隣接していなければならないことになり、この条件から考えると、「西殿塚古墳」こそが崇神天皇の真陵である、と推定できるのです。

いかがでしたでしょうか。今回は2回に分けて邪馬台国の二人の女王・卑弥呼と台与、およびヤマト政権の初代大王と目される崇神天皇の墳墓について考察しました。

長い文章になりましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

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