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【べらぼう】意次の失脚で態度を豹変…田沼派の老中・水野忠友(小松和重)の波瀾万丈な人生をたどる

【べらぼう】意次の失脚で態度を豹変…田沼派の老中・水野忠友(小松和重)の波瀾万丈な人生をたどる

田沼派の老中として活躍するも、田沼意次(渡辺謙)の失脚に巻き込まれてしまった水野忠友(小松和重)。果たして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。

今回は水野忠友について紹介したいと思います。NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の予習にお役立てください。

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旗本から大名・老中へ

水野忠友は享保16年(1731年)2月3日、旗本・水野忠穀(ただよし)と後香気院(杉田氏)の長男として誕生します。

幼名は卯之助(うのすけ)、元服して通称を惣兵衛(そうべゑ)と名乗りました。

水野家は元々信州松本藩七万石の家柄でしたが、従兄に当たる水野忠恒(ただつね)が江戸城内で刃傷沙汰に及んだことから改易されてしまいます。

父の水野忠穀が信州佐久郡に七千石を与えられ、辛うじて家名を保っていた状態でした。

やがて父が世を去ると12歳で家督を継ぎ、小姓として徳川家治(眞島秀和)に仕えます。

その後は小姓組番頭格・御側衆を経て若年寄に抜擢され、明和5年(1768年)には三河大浜六千石を加増。合わせて一万三千石の大名として復帰を果たしました。

後に駿河沼津藩二万石へ転封、さらに二度の加増を重ねて最終的には三万石へと成長します。

これも意次の引き立てあればこそで、幕政においては意次が推進する重商主義政策を支持し続けました。

そして側用人・勝手掛老中格・老中にまで昇進します。

2ページ目 田沼派への風当たりが強まると忠友は態度を豹変

 

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