【べらぼう】意次の失脚で態度を豹変…田沼派の老中・水野忠友(小松和重)の波瀾万丈な人生をたどる:2ページ目
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失脚するも、幕政に復帰
しかし天明6年(1786年)に意次が失脚し、田沼派に対する風当たりが強まると、忠友は態度を豹変させました。
男児のいなかった忠友は意次の四男を養子に迎え、水野忠徳(ただのり)と改名。後継者に指名しています。
それが意次の失脚に伴い、とばっちりを受けまいと慌てて忠徳を廃嫡(後継者から外すこと)しました。
※後に水野忠徳は田沼家に戻り、田沼意正(おきまさ)と改名します。
代わりに分家から水野忠成(ただなり。岡野知暁の次男)を養子に迎えますが、今さら田沼派のレッテルは剥がせません。
天明の打ち壊しをキッカケに失脚。松平定信(井上祐貴)より引導を渡され、老中を免じられてしまったのでした。
永らく不遇をかこったものの、定信の失脚後にほとぼりが冷めると西ノ丸付老中として幕政に復帰します。
在職中の享和2年(1802年)9月19日に72歳で世を去りました。
墓所は伝通院および乗運寺、戒名は脩徳院譲譽興仁懿翁大居士(しゅうとくいん じょうよこうじんいおうだいこじ)。水野の家督は養子の水野忠成が継承します。
終わりに
今回は田沼派の老中・水野忠友について、その生涯をたどってきました。
旗本に没落するも大名に復帰、老中にまで上り詰めるも寛政の改革で失脚、そしてまた老中に……。
劇中では存在感も今ひとつですが、なかなかアップダウンの激しい波瀾万丈な人生でした。
これからも幕政を支え続ける一人として、見守り続けていきましょう!
※参考文献:
- 福留真紀『名門水野家の復活 御曹司と婿養子が紡いだ100年』新潮新書、2018年3月
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