徳川家康のピンチを救った!?旗印「厭離穢土欣求浄土」に込められた願いとは
武将が戦のとき、敵味方を判別するために用い、チームとしての威厳や士気を高める機能を持った陣旗の”旗印”。毘沙門天を信仰していた上杉謙信の「毘」、その謙信のライバルである武田信玄の「風林火山」など、現在も武将のイメージと結びついて記憶に残されている場合も多いかと思います。
徳川家康の旗印は、「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)です。この言葉は、平安時代、源信によって編纂された『往生要集』の冒頭にも出てくる言葉で、「穢れたこの世を厭い、極楽浄土への往生を切実に希う」という、もともとは浄土系の教えに出てくる言葉です。
戦国大名・徳川家康が旗印に用いたスローガン「厭離穢土欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」とは?【どうする家康】
桶狭間の戦いで、今川義元が織田勢に討たれた際、その一方を聞いた家康(当時は松平元康)が、岡崎城へと帰還する途中、わずかな手勢を連れて、祖先の菩提寺である大樹寺へ逃れるも、寺を包囲されてしまいます。
困り果て、先祖の墓の前で、自害を決意した際、当寺の第13代住職・登誉(とうよ)上人が、家康にこの教えを伝え、自害を思い止まらせたといいます。この時、家康弱冠19歳。
その後、家康は同寺の寺僧とともに、寺を囲む敵を撃退しました。自分の手で「汚れたこの世を美しく平和な世にしよう」と、自身の旗印とし、天下泰平のために江戸時代を開いたのでした。
大樹寺は、1467(応仁元)年、家康の祖先である松平親忠(ただちか)が井田野合戦における戦没者の慰霊のために作った千人塚が始まりとされ、1475(文明7)に、勢誉愚底(せいよぐてい)上人を招いて創建したと伝えられています。
境内には、家康が佇んだと伝わる松平家8代の墓や、家康の祖父・松平清康が1535(天文4)年に建立した多宝塔(国重要文化財)などがあります。
3代将軍家光が建立した山門を起点に、岡崎城と大樹寺を結ぶ約3kmの直線は歴史的眺望「ビスタライン」と呼ばれ、400年近く守られてきた、岡崎を代表する景観として知られています。
大樹寺
愛知県岡崎市鴨田町広元5-1
【アクセス】名鉄東岡崎駅より名鉄バス乗車、大樹寺バス停より徒歩約10分
参考
トップ画像:大樹寺 公式ホームページより