悲しみを癒す美女、朝倉義景から溺愛された側室・小少将(こしょうしょう)とは一体どんな女性なのか?
戦国時代というと、男性たちが戦っていた時代というイメージが強いかもしれません。武家同士の対立、領土争いなど、血なまぐさい戦が繰り広げられていましたが、影響力を持った女性が多くいたことも忘れてはいけません。
そこで今回の記事では、朝倉義景(あさくらよしかげ)の側室であった小少将(こしょうしょう)という女性について詳しくご紹介していきたいと思います!
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小少将の生い立ちとは?
小少将は、戦国時代から安土桃山時代に生きた女性です。越前国・朝倉氏の家臣であった斎藤兵部少輔(さいとうひょうぶしょうゆう)の娘として生まれました(具体的な生年月日はわかっていません)。
小少将という名前も本名ではなく、『朝倉始末記』などの軍記物には、「小少将」「小将」「少将」といった名前で書かれています。諏訪館(すわやかた:一族の邸宅でも最も大きな場所であった)に住んだことから「諏訪殿(すわどの)」とも呼ばれることもあったようです。
朝倉義景の側室となる
小少将がその側室となった朝倉義景は、戦国時代の武将であり、越前朝倉氏にの最後(11代目)の当主でした。
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当時、義景には2人の正室と1人の側室がいました。1人目の正室は細川晴元の娘であり、女の子を出産しましたがその直後に亡くなってしまいます。2人目の正室は近衛家の娘でしたが、2人のあいだに子どもが生まれなかったため、やむを得ず離縁することに。
側室には、鞍谷刑部大輔嗣知(くらたにぎょうぶのたいふつぐとも)の娘を迎えます。待望の男児・阿君丸(くまぎみまる)が生まれましたが、母が出産後に死亡、阿君丸も幼くして亡くなってしまいます。
跡継ぎに恵まれず、また家臣の離反なども重なり、義景は意気消沈してしまいます。そんな彼を心配した老臣たちは、悲しみを癒し世継ぎをもうけるために美しい女性が必要だとして、て小少将を側室にすることをすすめます。こうして、小少将は義景の側室となりました。
男児を出産、義景からの寵愛を受ける
側室になった小少将は、1570年(元亀元年)に「朝倉愛王丸(あさくらあいおうまる)」を出産します。義景は彼女と息子を溺愛します。義景からの寵愛を受け、生涯を共にしました。