北条泰時の判断は?承久の乱で一番乗りを争った御家人たちのエピソード【鎌倉殿の13人】
「何のナニガシ、一番乗り!」
誰よりも真っ先に敵中へ乗り込む一番乗りは、合戦において高く評価される武功でした。だからこそ、多くの武士たちが先を争ったのですが、ここで一番乗りの定義が気になります。
敵中へ乗り込んだと判定されるのは、どこまで敵に接近したことを言うのでしょうか。まして仲間と先を争っている場面であれば、どっちが先に達したかの判定もしなければなりません。
そこで今回は『吾妻鏡』より、承久の乱(承久3・1221年5~6月)のハイライトであった宇治川合戦の戦後処理を紹介したいと思います。
一番乗りは川に入った瞬間?それとも渡り切った瞬間?
時は承久3年(1221年)6月17日、決戦に勝利した北条泰時(演:坂口健太郎)は六波羅に入り、共に戦ってくれた者たちの論功行賞を行なっていました。
「ん、何を騒いでおるか」
「それが……」
見れば佐々木信綱(ささき のぶつな)と芝田兼義(しばた かねよし)が口論しており、何でも「どちらが一番乗りか」を争っているとのこと。
「分かった分かった。どちらも話を聞くゆえ、まずは落ち着け」
さっそく泰時・北条時房(演:瀬戸康史)の前に連れて来られた両名は、それぞれ証言を始めます。
佐々木信綱「確かに宇治川へ入ったのは、橘六(きつろく。兼義)殿の方がほんの少しだけ先であった。しかし一番乗りとは川に入るよりも、渡り切って敵前上陸を果たした瞬間に決まるものであろう(=先に川を渡り切った自分こそ一番乗りである)」
芝田兼義「何を申すか。四郎(信綱)殿が川を渡れたのは、ひとえにそれがしの先導あってこそ。浅瀬の場所も心得ておらぬような者が、あの宇治川を渡れるはずもなかろう」
確かに「川に入った瞬間」で判断すれば、それ以降先に進まなくても足先をひたすだけで一番乗りになってしまいます。
だから今回は敵前上陸をもって一番乗りとすべきであり、佐々木信綱に理があるものの、それでは仲間を助けた芝田兼義が助け損に。
もう少し決め手の欲しい泰時は、共に宇治川を渡った春日貞幸(かすが さだゆき)に証言を求めました。