文豪・石川啄木の墓はなぜ北海道にある?その謎と悲劇の歌人の生涯を追う【後編】
東京での奔放な生活
【前編】では、歌人・石川啄木が紆余曲折を経て、北海道で働き始めたところまで説明しました。岩手生まれで東京で没した彼の墓地がなぜ北海道に設置されたのか、引き続きその理由を説明します。
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文豪・石川啄木の墓はなぜ北海道にある?その謎と悲劇の歌人の生涯を追う【前編】
彼の北海道での生活は1年ほど続き、その間に家族も呼び寄せています。しかし、あくまでも文学家として身を立てることを考えていた啄木は、家族を宮崎郁雨に預けて再び上京しました。
上京後は、中学時代からの大親友である金田一京助を頼りながら小説を書き続けますが、なかなか評価されずに絶望のどん底を味わいます。
その後、森鴎外や与謝野鉄幹・晶子らのサポートを得て文芸誌『スバル』を創刊すると、これを履歴書代わりにして、東京朝日新聞に就職して校正係となりました。
一見するとそれなりにちゃんとやっているようです。しかし、このときも家族への仕送りはせずに給料の大半を遊興に使い、かなり乱れた生活を送っています。
その後、彼は家族を北海道から呼び寄せて、一緒に暮らし始めます。しかし、相変わらずの貧困生活が続きました。
『一握の砂』、そして病
それでも、歌人としての才能があった啄木は、この時期に出版社・東雲堂との契約も取り付け、1910年には24歳で代表作『一握の砂』を発表しています。
しかし、それでも一家を養っていくには足りず、困窮したままでした。啄木は1日でも早く貧乏生活に別れを告げようと夜も働きますが、1911年には慢性腹膜炎を患い、思うように働けなくなります。
また、同年7月には妻・節子が肺尖カタル(肺尖部の結核性病変で肺結核の初期症状)を発症し、生活はさらに苦しくなりました。
12月には啄木も腹膜炎と肺結核を患って、入院を余儀なくされます。最期は自宅で療養することになったものの、貧困のため医者にも診てもらえず薬も買えない状況でした。
そうして翌年、肺結核を患っていた母・カツが3月7日に死去すると、その後を追うように4月13日にやはり肺結核で亡くなりました。享年26歳。