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文豪・石川啄木の墓はなぜ北海道にある?その謎と悲劇の歌人の生涯を追う【後編】

文豪・石川啄木の墓はなぜ北海道にある?その謎と悲劇の歌人の生涯を追う【後編】:2ページ目

遺骨が北海道へ

さて、『一握の砂』に続く彼の第2歌集である『悲しき玩具』が出版されたのは、葬儀から2か月後のことでした。

節子は『悲しき玩具』が出版された後、啄木とカツの遺骨を等光寺に預け、ふたりの幼子を連れて函館に移住します。

それから1年後の1913年、急に肺尖カタルの症状が重くなった節子は、東京に置いてきたままの夫と義母の遺骨が気になり、引き取りたいと訴えます。

その話を聞いた、函館の図書館主事である岡田建蔵が上京して、等光寺を訪れて遺骨を引き取りました。そして帰郷して遺骨を節子に手渡したのが3月27日のことでした。

間もなく、5月5日に節子は安堵したように息を引き取りました。

岡田や、文学仲間だった宮崎郁弥らは節子の遺志を汲んで、函館市の立待岬の海沿いに墓を建て、節子の49日忌に当たる6月22日に啄木らの遺骨を埋葬しています。

現在も、立待岬へ通じる坂道の脇には「石川啄木一族の墓」と記された木標があり、その近くには将棋駒型の墓があります。今でも、多くの人が手を合わせに訪れています。

参考資料
アーバン ライフ メトロ

 

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